梅雨晴間

画像 雨に煙る福地温泉は、しっとりとした佇まいで、まさに名湯と呼ぶにふさわしい風情を備えていた。これでこそ、わざわざこの地に足を運んだ買いがあったものだ…などと思わなければやってられない。その実は、梅雨の晴れ間を狙って福地山を登りに来たのだが、高山地方に晴れ後曇りの予報が出ていたのに、平湯峠を越えたあたりから小雨がぱらつきだし、福地温泉の温泉街にたどり着いたときには本格的な雨に見舞われていたのだった。もとより焼岳や槍穂高の展望台として名高い福地山、この状況で登って得るものはほとんどない。日帰りでも交通費だけで1万円程度はかかる山なので痛恨の極みだが、福地山登山はまたの機会に見送ることにした。まあ、秋が深まってから、行く夏山シーズンを惜しみながら登ろうか。

 時に、九州に行ったのも、東海自然歩道に行ったのも、5月中の話である。つまり最近まで1か月以上遅れの記事をアップしていたことになる。九州旅行記が長かったので、公開までの時間がかかり、結果としてそういうことになったのだが、6月に入ってからこっちの間に、毎年やってる夏山フェスタに顔を出した。今年は、ここ数年常連のようになっていた女子山ライターが不参加だったのだけれど、興味を惹かれる公演はあったので、そちらは覗いてきた。お題目としては、夏山に向けたトレーニングと遭難救助の現場の話。そして2日目には、遭難シリーズでおなじみの作家・羽根田治氏も来場したので、その取材に基づく話を聞きたかったのだが、タイムテーブルを勘違いしていたので、羽田氏の話を聞くことはできなかった。

 今回一番重要な知見を得られたのは、トレーニングに関する講演だったかもしれない。どちらかというと残念な話なのだが、山に向けたトレーニングという意味では、平地歩行はほとんど役に立たないという。運動強度が違いすぎるし、使う筋肉が根本的に違うのだそうだ。まあ、経験的にわかっていも、あえて目を向けないようにしていた点とも言える。強いて言うなら、東海自然歩道だとか知多四国だとかは、長時間だらだら歩き続けるという行為に慣れ、足が痛くても歩き続ける克己心を養う意味もあるからセーフと言ったところだろうか。

 また、日常の階段上りは運動強度だけで言えば山に登るのと遜色がないが、普通に暮らしている中だと、数メートルの高さを数分間登るのが関の山なので、これもあまり有効なものとはならない。というわけで、最低限スクワット15回×5セット程度はできるようにしておきたいという話だったので、これだけは実践するようにしているのだが、だんだん面倒くさくなってきたので75回×1セットで済ませるようになってしまった。これで効果を得られるのかどうかは定かではない。講演の中でそういう話にはならなかったが、一番つぶしが効きそうなのは結局走り込みとかの、心肺機能を高めるトレーニングのような気もする。ただ、趣味登山の場合だと息を切らさないように、汗をかかないように登るのが正しいペースメイクだとされているので、そこまでガチの走り込みはあまり必要とされないのかもしれない。結局のところ、登山のトレーニングとして実際山に登る以上の物はないらしい。2000mの山道を一回登る予定なら、その1か月前程度には体を慣らす必要があるが、1000m×2でも、500m×4でも、登った高さの総和が、目標とする高さとイコール近くなれば、予行演習としてはある程度の効果が見込めるのだそうだ。だからこそ、福地山には登っておきたかったのだけれど。

 ちなみに、昨年の教訓をもとに今回はドコモの山岳通信エリアマップをもらってきたのだけれど、小屋情報の収集はもう一つ思わしくなかった。さすがに笠ヶ岳山荘は参戦していなかったし、穂高岳山荘や赤岳鉱泉辺りはブースを見かけたのだが、マンツーマンでがっつり相談できる体制となっていたので、持ち前の引っ込み思案を発揮してパンフレットをもらうだけで済ませてしまったのだった。


ドキュメント 単独行遭難 (ヤマケイ文庫)
山と渓谷社
2016-12-09
羽根田 治

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山登ってみよう【縦走東海自然歩道・寺島~油山峠~牛妻坂下・後編】

画像 谷沢と書いてやざわ。大山山頂を踏んだ後、次に目指すことになる集落の名らしい。が、そこに通じるはずの道は、指導標がなければ見落としてしまいそうなほどに影が薄かった。影が薄いというか、笹類が繁茂していて、どこが道なのか非常にわかりにくい。事前に得ていた情報通りとも言えるのだけれど、笹盛りを迎える前を狙いすましてこの時期を選んだ甲斐もあって、道が藪に没しているというほどのことはない。歩いていると両側から伸びてくるクマザサの葉が体のあちこちをなでてくる道。そんなところである。

画像 幸い、やぶ漕ぎ道は10分経たないうちに終わった。しかし、その先の道も決して良い道ではなかった。東海自然歩道の平均と比較した場合、下の上くらいの整備水準ということになりそうな、踏み跡程度の道。気が付けば辺りが一面の植林となっているのも厄介だった。ところどころ、ルートが判然としない箇所もある。幸い、こんな場所でも指導標はある程度の間隔で立っているので、なんとか迷子にならないで済むが、頼りない道なのは確かだ。褒められることといったら、坂本からの登りとは打って変わって、わき目も降らず、ずんずん下っていくことくらい。全く、長い登り坂の途中で効率よく移動できる山道を願った甲斐もあったというものだ。この世に神はいるに違いない。ただ、これだけ急な下りが続くと膝が萎えてきそうだ。登りに使うのもつらそうな道だけれど、もう少し緩急が着かないものか。そんなことを考えていたら、せいぜい20~30m程度のものながら、アップダウンも現れてきた。山道づくりの神もどうやら、おわすらしい。

 斜度からしてぐんぐん下がっていることは間違いないのだけれど、人里に出るまでには意外と時間がかかる。12:14、水見色峠を通過。いやに詩的な名前だが、その起源はどこにも説明されていない。ただ、近在の集落と同名だということだ。そこからわずかで林道と合流し、さらに少しでもう一度山道に入る。相変わらず急坂が続くが、10分ほど下ったところで、舗装された里道に出た。ただ、すぐ近くに民家はなかった。気温は、かなり高くなっている。また、足もかなり弱ってきている。状況はあまり良くない。やがて、家々が姿を現したけれど、民家があるだけだ。自販機があって、冷たい缶コーヒーが飲めればありがたいのだけれど、そう言うものもない。東海自然歩道の旅人としてはいくらか邪な考えだったか。

 近くにあった指導標は、牛妻まで8.2㎞175分の表記とともに、油山温泉まで5.5㎞130分の表記もある。合わせて、近くにあるらしい谷沢バス停への道順も表示されている。峠越えの道となる油山温泉まで歩行は骨が折れそうだが、次回以降との括り方も考えると、ここでバスに乗るのは考えられない。というかそもそも、本当に今もバス路線が存在しているのか疑わしく思う事情もあったのだが、そんなことを考えていた矢先、山側に向けて走っていく路線バスの姿があった。どうやら、今も静岡市中心部方向から山に向かう路線は存在しているらしい。

画像 10分ほどの間、幅の広い道を歩き、橋を渡って油山峠方向に向かう。橋のたもとにはリゾートホテルなるものの看板があり、またしても本当にそんなものがあるのか疑ってかかってしまった。廃業したホテルか、ラブホテルの類が関の山なのではないかと勘繰ったのだけれど、このホテルは実在した。場合によっては東海自然歩道歩行の過程でここに泊まることも考えられなくはないのかもしれないが、次の区間に静岡県最高の竜爪山が控えているので、間に峠道をおいてここに泊まる意義は乏しいかもしれない。ちなみにその道中、何の変哲もないゴミコンテナが設置されていたのだけれど、そこに掲出されていた一文が妙に印象に残った。「身に着ける物は途上国の人が喜んで再利用して下さり、資源は再生されます」。前半部分、本当にそうなのだろうか。

 さて、くだんのリゾートホテルの前を通り過ぎたところで、少し道に迷う。直近に設置されていた看板の指示通りに歩いていくと、どうもホテルのものらしいガレージの中に突っ込んでいくことになりそうに見える。ただ、それ以外に道らしきものもない。おっかなびっくり、完全私有地ムードの屋根の下まで進んでいくと、その向こうに指導標が見えた。どちらかというと、この指導標は建物の手前に欲しかった。

画像 そこから先は、意外にも普通の山道が続いていた。幅員は、一人が通るのがやっとといったところで、所によっては多少法面が崩れていたりするのだけれど、歩行困難というほどのこともない。道沿いは渓流となっており、登山道としてはそんなに悪い雰囲気のところではない。が、うわさに聞く油山峠の道だ。油断は禁物、登りは良くても下りが悲惨ということだってあるかもしれない。慎重に歩を進める。というより、さすがに疲れも出てきているので、そんなにスピードが出ない。気温のせいか、体力不足か、そこは何とも言えないが、水分を取りつつ、抑え目のペースで進む。

 客観的に考えれば、スタートから5時間半の時間が経過しているのだ。疲れ知らずでここまで歩くというのは無理なのかもしれない。5時間歩いて決着がつかない山など、そうそうあるものではない。一番最近歩いたビッグマウンテン・白馬岳では、スタートから5時間半で小蓮華山の頂を踏み、白馬山頂への稜線上、三国境にいた。クライマックスは近いタイミングだった。過去最大の激戦だった槍ヶ岳においては、上高地を発ってから5時間半で天狗原の手前にいた。こちらの場合だと、槍ヶ岳はまだその姿すら見せておらず、なお3時間余りの歩行を余儀なくされた。槍基準で言うと、へばるにはまだ早い時間帯である。東海自然歩道歩行としては…8時間コースくらいまでは過去何度かあったので、このタイミングでこの調子というのはあまり名誉なことではない。強いて言うなら、このぐらいの時間帯にまとまった登りをこなすことになったケースはそんなに多くないような気はする。三重県コースの鈴鹿峠越が今日の感じに近いのか。

 いろんな思いが去来したが、ホテルから30分ほどで油山峠の鞍部に出た。ここまでは、言うほどにひどい道はなかった。というか、木橋や木段などは、わりと近年に整備されたと思しき雰囲気があったので、もしかして大規模メンテナンスがあったのだろうか。いや、そういう期待をし過ぎると裏切られた時が辛い。ここから油山温泉までの下りに何が待っていても心が折れないように、気合を入れなおした。ただ、結論から言えば、下りの道も普通に歩ける程度の整備水準にはあった。他県コースの徒歩道として整備された山道に比べれば、道幅その他は見劣りがするものの、コースが流失してしまっているというような箇所はないし、峠入口の看板に書かれていたような、何度か渡渉を繰り返すというほど野趣あふれるコースでもなく、一応トレイルコースとしての面目は保っている。道中、肥料袋が散乱する道とか、廃屋の軒先をやり過ごす場所とか、自然歩道というにはやけに生活感のあふれる場面もあったので、もしかしたら既存の作業道か何かへのコース付け替えくらいはあったのかもしれない。いずれにせよ、悪名高い?油山峠区間も、荒れるに任せて放棄されたわけではなさそうだ。ただし、その整った道の一部であっても、路面の土が谷底の方に向かって流れている箇所はあったので、もともと崩れやすい斜面に造られたコースという事情はあるのだろう。

画像 峠道の終わりが唐突にやってくるのだけは、前情報の通りだった。山道を抜け、小さな橋を渡ると、これまた小さな油山温泉の温泉街があった。20世紀の終わりごろくらいまでは、静岡市民の保養地あるいは宴会場としてそれなりに需要があったのではないかと思われる雰囲気を残しているが、今は2軒ほどの宿が営業しているだけの、どちらかと言えば隠し湯的な雰囲気がある。ただ、そのうちの一軒は、わりと正統派の和風温泉旅館の佇まいを見せていた。

画像 油山温泉は間もなく終わり、住宅地を抜けると、安倍川に行き当たる。その少し手前から、前方にはやけに存在感のある山がそびえているのが目に付き始める。予習がまだなので確証はないが、恐らくはあれが竜爪山なのだろう。さすが静岡県コース最高所というだけのことはあり、低い山には見えないが、次回はスタート直後からこの山に向かって登り始め、反対側の山麓に下って終わりという、比較的素直な山登りコースとなるはずだ。問題は、山を越えた先の足に完全予約制のオンデマンドバスを使わなければならないことだ。山歩きとの相性はお世辞にも良いとは言えず、何かうまい方法はないかと考えているが、妙案がない。おそらくは、オンデマンドバスを使わざるを得ないのだろう。

画像 曙橋で安倍川を渡った。今日のゴールとする牛妻坂下のバス停は橋を渡って右手に少し行ったところにある。こちらはしずてつの普通の路線バス停なので、ある程度の本数が運行されている。基本的には1時間に2本程度は走っているようだが、折悪しく、私がゴールインした15時台は、15時直後の1本しか便がなかったので、40分ほど待って、16時過ぎのバスで静岡駅まで戻った。駅までは30分、地図で見ていてもわかるような話ではあるけれど、思いのほか街中が近い。

 帰りも新幹線を使う。宿泊を伴わない分、旅費はいくらか安く抑えられていると思いたいが、この先はおそらくずっとこんな調子の旅が続く。軍資金の捻出も重要な懸案となりそうだ。

山登ってみよう【縦走東海自然歩道・寺島~油山峠~牛妻坂下・前編】

 東海自然歩道静岡県コースのうち、大山~油山峠の区間に関する評判は芳しくない。華に欠けるのは静岡県コースのほぼ全般に共通する弱みのようになりつつあるが、この区間最大の欠点は、劣悪な維持管理状態のただ一点に尽きる。二十年ほど前のガイド本を見ても、比較的最近のネットの踏行記を見ても、大山は藪山で、油山峠では道が崩壊しているという記述は、およそ共通している。たまたまある時期、コースが傷んでいたというよりは、大体いつもそんな調子だと見るべきところだろう。だが、ハイライトをつまみ食いするだけならともかく、全線歩くことを目標としてしまった私の旅では、だからと言ってこの区間を避けることもできず、ついに比較的条件が良いと思われる初夏の時期に、意を決してこの問題児区間に挑むことにした。

画像 まずは新幹線に乗り、静岡駅へ。のぞみで行くからねとは行かないが、ひかりが止まるので、静岡駅へのアクセスは容易な部類に入るのだと思う。そこからさらに路線バスに乗って、前回の中断地点・寺島バス停…に近い八幡バス停へ。8:29到着。そこから歩く。新幹線、在来線、そしてバスからバスへと乗り継いだ前回や、それに近いことを繰り返してきたここ最近の歩行に比べ、お手軽さは雲泥の差という感がある。ホームから遠くなっているのにこういうことが起こり得るのが、東海自然歩道の旅の不思議なところなのかもしれない。八幡バス停は、東海自然歩道上の一地点ともなっている久能尾行きのバスが通過するバス停だ。

 久能尾から寺島までの間に、一山越えることになるのは前回歩行の際に書いた通りだけれど、八幡から寺島までも、県道を30分ほど歩くことになる。スタート地点を久能尾において山を越える場合に比べ、得られる時間短縮効果は30分~1時間弱といったところ。ただ、山越えを一つパスできるのは、体力面からもやはり大きなアドバンテージとなる。そして、一応前回のゴール地点からスタートを切ったのは、8:59のことだった。

 今日のコースを概括すると、前半戦で標高986mの大山を越えた後、いわくつきの油山峠を越え、少し歩いて竜爪山のとりつきとなる牛妻坂下バス停にゴールするもの、となる。歩行距離は20㎞超と言ったところになるか。前半戦とは言うものの、大山は結構な長丁場となるので、時間配分的にはこれをやっつけた後の余韻のうちに油山峠を抜く感じになるだろうか。問題となるのは、体力面と、今年初の酷暑日になるとかならないとか言われている今日の気候である。熱中症を警戒し、水分は多めに持ってきているが、それは当然、荷の重量が増すことを意味している。道中自販機などで補給できる保証のないコースなので、それも仕方ないところと割り切った。

画像 まずはその、最初の関門となる大山に挑む。寺島集落から少し歩くと、名前が変わって坂本と呼ばれる集落がある。幹線道路に面して家々が立ち並ぶ感じだった寺島とは違い、昔ながらの農山村という雰囲気を残す地域である。入口近くに親水公園と呼ばれるものがあって、鎮魂の碑などとされるものが建つ、ちょっとした広場になっている。どうやらその昔、二度に渡って付近で山崩れが発生し、人的・物的被害を出したことを記憶にとどめる目的で、碑が建っているようだ。合わせて「坂本『歴史の郷』詳細マップ」と題されたイラストマップが描かれた看板も立っている。あまりなじみがなかったのだが、このエリアは通称オクシズと呼ばれる地域に当たるらしく、静岡市としてもそれなりに観光振興に力を入れている風ではあるのだけれど、看板に静岡市の名が入っていないところを見ると、地元により作られたものなのだろうか。界隈には、決して目立つ観光地はないけれど、武田氏滅亡の折に落ちてきた七人の落ち武者がこの地で自害したことにちなむ七人塚があるらしい。また、静岡茶の始祖とされる聖一国師(しょういちこくし)の母なる坂本姫という人もこの地の出身なのだそうだ。いろいろ古い歴史の逸話が残されている土地柄だというのはわかるが、肝心の大山に関する記述が極めてそっけないのが気になる。至大山山頂と方角が記されているだけだ。

 しかし、そこは覚悟していた部分でもある。コースガイドなどでもその名が出てくる大山ではあるが、その実態に注目すると、特に寺島側から登る場合は延々と舗装道路を登り続ける山に過ぎず、ハイキングコースとしてはもう一つパッとしない印象だ。そもそもこの舗装道路というのも、山頂付近にあるNTTの電波塔の保守作業用に存在しているものらしく、一般車の侵入が禁止されているという代物だ。ハイカーに喜ばれる道ではなく、一般ドライバーの役に立つものでもないとなれば、扱いが小さくなるのは仕方のないところなのかもしれない。坂本から30分ほど登っていくと、通行禁止の看板とともに固く閉ざされたゲートに行きついた。物々しさにたじろぐが、その向こうに東海自然歩道の指導標が見えたので、比叡山ルールみたいなもので、東海自然歩だーの通行は認められているものと解釈し、先に進む。解釈というかまあ、実際そういうことなのだろうけれど。

 そして始まる辛い道。車が登るための道なので傾斜は極めて緩い。そして傾斜を緩くするため、かなりジグザグと蛇行しながら登っていく道なのだけれど、これが歩行距離を長くする。大体、坂本のあたりを歩いている時から気が付いていたのだけれど、大山の稜線は思いのほか近くに見えた。徒歩道で一気登りを仕掛ければ、1時間コース程度の道となりそうだったのに、これに2時間をかけるとは、相当迂遠なコース取りとなっているのは間違いない。そして足元は砕石敷きとも荒れ果てた舗装ともつかないが、少なくとも柔らかな土の道ではない。例によって長く歩いていると足が痛くなってきそうな道なのもうれしくない。

画像 ただ、こんな道でも、時々は展望を得られ、坂本姫がらみの伝説地や、上臈の段とかいう何か曰くのありそうな地名も見られる。意外なことに、何かの鳥とも猿ともつかない動物の甲高い鳴き声はひっきりなしに響いており、野生動物の数も多そうだ。そして道中では、カモシカにも出くわした。こちらの存在にも気づかず、呑気に道路脇少し上方の斜面で草か何かを食べている。油断しているところを盗撮した後、4、5歩も進むと、カモシカ射程に入ったのか、脱兎のごとく逃げられてしまった。それにしても、これほどに人工物の多い山がカモシカの生息域とは、意外な気もする。反面、聞いたことがある。南アルプスではニホンシカの生息域が拡大しており、その結果カモシカの領域が圧迫されていると。さっきのカモシカは、南アルプスから住処を追われ、ここまで流れてきた流れ者だったのかもしれない。

 このだらだら坂が、結構応える。延々登り続けていて、多少息が上がりはするものの、苦しくなるほどのことはない。ただ、思った以上に消耗する。木々のおかげで直射日光はさえぎられているが、気温もそれなりに上がっているようだ。熱中症予防のため水分は意識して取るようにしているが、発汗量も馬鹿にはならないかもしれない。歩いているとめまいがしてくるような気もする。何というか、変化のない道が長々続くのが厳しい。効率よく登る徒歩道があれば、きっとこんな苦労はなかっただろうに。どこかにそういう道はないものか。

画像 坂本集落の入口から登り始め、1時間50分ほども歩き続けたところで、大山の稜線に出た。2時間近く登ることになるとは、痩せても枯れても大山だったということか。大山の山頂は別のところにあるようだが、11:08、大山の電波塔に到着。終始人工物が目に付く登山道だったが、山頂に巨大な電波塔があるのは、やはり異様な感じはする。こういうものが山上にあること自体は珍しくはないけれど、そういう山は得てして観光地化されているのに、大山はそういうわけでもないので、独特の雰囲気があるのだ。ともあれ、指導標が指し示す道の先を目指すように、電波塔の反対側に回り込むと、テーブルとベンチが設置されていた。その一画の木々が切り払われていて、そこから展望を得ることができた。夏が近いこともあり、すでに遠景には霞がかかっていたけれど、見えているのは静岡の街並みと、その向こうに駿河湾なのだろうか。東海自然歩道から海を見られる場面は比較的限られている。

画像 正午まではまだ1時間ほどの時間を残しつつ、今日はこの先適当な休憩場所がないかもしれない。昼食にしようかと考えた矢先、やらかしに気が付いた。今回、準備の時間があまりなかったこともあって、あわただしく支度を整え家を出てきてしまったのだけれど、そのせいで昼食らしい昼食をもってきていない。カロリーメイトとかの行動食やおやつ類はやたらいっぱい持ってきているので、それで代えることはできたが、閉口してしまうのは、この場所の虫の多さである。アブのような大型の虫が飛び交っているので、どうにも落ち着かない。仕方がないのでここでの休憩は諦め、先に進むことにする。ただ、前情報によると、この先始まる下り坂道ではやぶ漕ぎを強いられるとともに、かなり急傾斜となっているとも聞く。念のため、長袖のシャツを羽織って、この先の悪路に備える。できれば夏山グローブも持ってきたかったが、気が付けば片方をなくしていたので、ハイシーズンまでには買いなおさなければ。

つづく




令和最初の九州旅・その6

 今日の本命は、長らく行きたい行きたいと言ってきた大和ミュージアムである。これに大久野島を乗せたかったのだが、島に渡る船の出航時刻の都合で、大久野島は今回見送ることになった。ミュージアムの開館時刻を意識しつつ、アストラムラインを取ろうとすると、だいたい6時を回ったころから行動を開始すれば良さそうだ。わりと遅い時間帯だと胸をなでおろす心境になるのは、もはや壊れ始めているという証拠なのかもしれない。

 さて、路線方面ではアストラムラインと呉線が今日のメインになるが、まず広電に乗って広電本社前に向かう。例によってイベントをやっていて、ここに行くと景品がもらえるのでそれにつられていったのだった。最初は流川近辺から歩くことも考えたが、意外に距離があるので、仁義を通して電車で行くことにした。それにしてもこのイベント、中には相当辺鄙な駅に行かされるミッションも含まれていて、そういうところほど報酬が良いのだけれど、白浜とか井川とか、そう簡単に行けるものではない。まあ、前者は最長路線バスの旅のついでに引っ掛けることも考えられるし、後者は大井川鐡道の旅の時に不通のため唯一到達できなかった駅なので、もう一度くらい行ってみるのも良いかなと思う駅でもあるのだけれど。

 そんなことを思いながらアストラムラインに乗り換え。始発駅は本通駅という。平和記念公園の東方、広電のターミナルとも言える紙屋町の電停の南方に位置するが、地下駅である。アストラムライン序盤の駅は地下駅らしいので、すでに取ったことのある本通駅はともかく、次に来る県庁前駅などで位置情報がうまくつかめないと痛いので、紙屋町で広電を降りた後は、県庁駅まで歩いてみた。観光客向けには、広島城の最寄り駅であると同時に、高速バスの集まってくるバスセンターにも近く、広島市内では広島駅に次ぐ交通の要衝と言える。取れるべくして県庁前駅を取った後はアストラムラインに乗車。

 アストラムラインこと広島新交通システムは、専ら広島市中心部と郊外を繋ぐ通勤通学の足として作られたのであろう路線だ。広島市周辺は、この地域では限られた低平地の存在する地域ではあるけれど、それでも政令市クラスの街が発展していくに伴って北方の山に突き当たってしまったため、それを迂回するようにして市街地が発達し、そうして出来上がった街をつなぐ使命を帯びたアストラムラインも、山地を巻いて屈曲しながら伸びているため、路線全体を眺めるとU字型の線形を描いている。2014年の豪雨で大きな被害を受けた地域にも近いが、調べてみるとあれはもう少し北の可部地域での出来事だったようだ。ただ、ある程度古い人間なら、アストラムラインと言われて思い出すもう一つの惨事がある。この路線の工事中に発生した橋桁落下事故だ。この種の路線によくあるように、県道上に高架線が設置されているため、工事中に発生したこの事故により、下の県道を走っていた自動車が巨大な橋桁の下敷きとなり、9名の死者を出した。怪談めいた話も付きまとうため、メインサイトの方で触れたこともある。

 ただ、乗ってみて面白い路線かというと、必ずしもそうではないのは少々残念なところで、高い位置を走るので眺めは良いのだけれど、基本的には高度に発達した市街地と、それに間近に迫る山とが見えるだけの車窓風景が延々と続く。強いて言うなら、こういう地域だったため、前述の事故では幹線道路を安易に通行止めにして工事をすることができなかったのだなあと実感できたのが発見だったのかもしれない。小一時間ほど乗車して終点の広域公園前駅に下車。サンフレッチェのホームスタジアムはこの駅が最寄り駅らしい。終着ながら僻地感はない。結局のところ、路線はここで終わりだけれど、南に向かって道なりに進めば、そのまま広島市街の西端に出るため、そこまでずっと、多くの人が暮らす街並みが続いているようだ。その割に駅前のデッキのタイルが見るも無残なほどバキバキに割れていたのは、サッカーの試合の際に多くの多くの人が行き交うからだろうか。謎である。

 そんな地勢なので、路線バスで五日市の方に抜けることもできたのかもしれないが、ここはやっぱり来た道を引き返す。JRへの乗換駅としては新白島駅が提示されたが、実際乗り換えてみるとなかなか複雑な構造となっており、苦労して後付け路線を作ったのだなというのが感じられた。そこからまずは広島駅まで進み、そして呉線に乗り換え。

 広行きの列車に乗る。はじめて広という駅名を見たとき、広島を省略して広なのだと思った記憶があるが、れっきとした一文字駅名である。呉線には、その名の由来となっている呉駅も含め、そうした駅名が二、三ある。というか、呉という地名も、最初は「ご」と読んでいた。もちろん、孫氏一族の王朝に影響されている。呉線という路線は、広島駅と三原駅を結んでいる。内陸を走る山陽本線に対し、瀬戸内海沿岸を行く。基本的には直通列車がないので、広島―三原間の移動手段としては利便性で山陽本線に劣るが、本数が極端に少ないわけではないので、実用性皆無というわけではない。ともすれば山間部の単調な風景が続きがちになる山陽本線に比して、車窓風景は変化に富むので、旅情を楽しむためにあえてこちらを選ぶということも考えられないわけではないのだ。もちろん沿線は、これから私が目指す呉をはじめ、観光資源にも比較的恵まれているので、駅を集めるゲームに手を伸ばしたからには、もっと早い時点でここに来ていてもおかしくはなかったのだが、現実にはそうならなかった。呉線もまた、豪雨災害に見舞われた路線で、全線の復興には相応の時間がかかった。同路線に属する駅には天応駅という駅もあるが、この地域を襲った災害がニュースとなった際には、しばしばこの名も一緒に報じられていた。この旅の際は、もちろん呉線の復旧が完了したから成立したものなのだが、天応駅近くには、かつて土砂に飲まれたことが容易に想像できる廃屋も残されていた。

 広島駅から一時間弱の列車旅の後、呉駅で下車。そこから大和ミュージアムまで歩いて10分ほどの距離だ。路線バスの類が走っているのかどうかは定かではない。そもそも微妙な距離感だというのもあるが、呉駅の改札を出るや大和ミュージアムへの道案内が出ていて、それに従って歩いていくとペデストリアンデッキに誘導され、このデッキが商業施設に接続し、その中を貫通するようにして大和ミュージアムまで続いているので、なし崩し的に歩いてしまうような設計となっているのが大きい。ミュージアムがあるのは港町呉を象徴するベイサイドエリアで、てつのくじら館こと海上自衛隊呉史料館のほか、江田島、松山に向かう船もこの地域から出ている。

 大和ミュージアムに来るのはこれが初めてというわけではない。それでもまた来ようという気になったのは、同館の展示に対する姿勢に好もしい印象を持ったことに尽きる。私自身、もともと戦史系の博物館・資料館の類は好きなのだけれど、大和ミュージアムはその中でも最もニュートラルな姿勢を貫いているように思う。展示の主眼が、戦争の是非ではなく技術開発、つまりはかつて軍港であった呉の町で開発・建造された兵器と、それにより培われた技術がどのように発展・継承されて今に至っているかを見せようとする点にあるためのよう思える。無論、兵器は戦争のための道具に他ならないので、それがどのようにして使われたかという展示もあるのだが、それについて何を思うかについては、見学者に任されている。展示物の中には回天、つまり特攻兵器も含まれるのだが、だからどうだこうだということについては、やっぱりほとんど言及されていない。

画像 今回の訪問時は、企画展として「海底に眠る軍艦 ー『大和』と『武蔵』-」というのをやっていた。これも、海底から引き揚げられた戦艦大和のパーツ類をそのまま展示しているものなのだけれど、有名な坊ノ岬沖の海底から、一部とはいえ引き上げられた残骸の一部が目の前に横たわっていることに、厳粛な気分にさせられた。ちなみに、武蔵は大和の兄弟艦に当たる。一般に大和型戦艦と言われるように、フラッグシップとなった大和の雷名と比べると、いくらか地味な印象があるが、さながら死地に赴くかのようにして最期を迎えた大和に比べれば、圧倒的に敗色濃厚ながらレイテ沖で激闘を繰り広げ、戦艦らしいと言えばらしい最期を迎えた。その割にはやっぱり、展示場の扱いが小さい気もする。よく知らなかったのだが、呉で建造された大和に対し、武蔵は長崎で建造されたのだそうだ。大和ミュージアムにおける展示の比重が、地元出身の大和に傾くのは仕方のないことだったとしておこう。

 さて、今回の旅の日程からして、大和ミュージアムでそんなに長い時間を確保することはできなかった。企画展を比較的じっくり見学した後は館内を流して、呉駅に戻った。その後は、結局広駅まで進み、さらにそこから三原行列車に乗り換えた。呉辺りまでの呉線は、広島の通勤圏という雰囲気が色濃く表れていたが、広より東側ともなると、そういった色は急速に薄れ、瀬戸内の旅情を感じさせる観光路線としての顔がのぞくようになってくる。線路から海が近く、特に瀬戸内を強く意識させるものとして、造船所のドックもしばしば目に付く。沿岸部を走る鉄道路線は、日本中に数限りないほどに存在するが、ドックの多さで言えばこの地域に勝るところはない。かつて青春18きっぷの旅を始めた頃、尾道あたりの車窓から同じような景観を見たことは強く印相に残っているし、実際同地域の風景は、現在では日本遺産の一つとなっている。それとよく似たものが、呉線沿線にはある。

 広島駅を出てから三原駅に着くまで、呉線に揺られている時間は都合2時間ほどにはなる。山陽本線で三原―広島間を移動するよりも明らかに長時間を取られることにはなるのだが、それを感じさせないうちに三原に到着した。ここからは、山陽本線で福山駅まで移動。新幹線の駅としての格は、三原と福山ならほぼ同等のようにも思っていたのだけれど、実際には福山のが格上ということになるらしい。たぶん、東海道新幹線で言うひかりの停車駅と通過駅程度の差はあるのだと思われる。福山からは、これまで乗ったことがないのではないかとさえ思われるさくら(東海道・山陽新幹線で言うひかりと同格)に乗って新大阪まで進むことになった。いつもだと、博多までみずほに乗り、博多からは東京行きのぞみに乗るパターンが多い。

 それはさておき、列車に乗り込んでみて、私はまたも虚を突かれた思いがした。昨日の博多発のひかりはあんなに空いていたのに、今日は乗車率が140%程度に達しているというではないか。まあ、この時期の新幹線が空いている方がおかしかったと言えばおかしかったのだし、140%程度で済んで良かったとも言える。狭いデッキで居心地の悪さ味わっているとを、意外なことに、混雑は新大阪駅でのぞみに乗り換えた段階で緩和され、いつも通りデッキに一人二人と突っ立っていれば済む状態となった。駅メモ的にトンネルの多い山陽新幹線は盛り上がりに欠けたのだが、最後にのぞみでポコポコ駅を回収して、華々しく?令和最初の旅は終わった。実質4泊5日となる旅は、大変だったし疲れたのも事実だけれど、やはりこれだけ長い期間旅を続けていると、このままずっとさすらい続けていたような気になってくるのも不思議なことだった。

令和最初の九州旅・その5

 博多駅から、新幹線ひかり号に乗ったが、虚を突かれた思いがした。10連休もそろそろ終わりが見えてきて、我を見失って九州まで長めの旅行にやって来た勢も、そろそろ帰るべき我が家を目指し、大挙して東に向かう新幹線に乗り込むものと思っていたのに、そんなこともない。ひかりの自由席車両はのぞみのそれより多めに編成されているとはいえ、それにしても余裕で座れる。はっきり言ってガラガラである。博多はのぞみの始発駅なので、遠方に帰ろうとする人たちはのぞみの自由席狙いでも分の悪い勝負にはならないし、よほど石橋をたたいて行くタチでなければ、誰だってそうする。私だってそうする。

 にもかかわらず、今回の私がのぞみではなくひかりをチョイスしているのには、訳がある。九州旅行の計画が組みあがって少しした頃、妙に広島に行きたくなった。4月も下旬に差し掛かったころのことだったので、当初は止まる宿すらままならない状態だったのだが、たまたま、広島旅ではいつも世話になるグランドサウナの空き部屋を押さえることができてしまった。一度は満室になっていたはずなので、キャンセルが出たのだと思う。とにかく、広島に足場を確保することができたので、九州旅を終えてもそのまま直帰はしないことにした。

 ただ、一応広島泊まりの方針が確定的であったとしても、もう少し九州に留まるという選択肢は考えられた。今度の旅で、長崎、佐賀の完全制覇は達成され、福岡の終わりも見えてきた。というか、残った駅は、筑豊本線の勝野~原田、後藤寺線全線、福北ゆたか線の桂川~長者原までの区間に属する駅だけとなっている。こういう書き方をすると分かりづらいけれど、福岡市西方で十字状にクロスする路線群である。駅数にして残り17駅。何となく僻地のローカル線という感じではなさそうだし、またアイテムを併用すれば今日中の福岡制覇も可能なのではないかと思われたが、それでも九州の地を後にしたのは二つの理由があった。一つは、ここで福岡を押さえたとしても結局大分と熊本に未取得駅が残っていること。豊肥本線の大分~波野、同じく豊肥本線の令和最初に取り損ねた平成をはじめとする熊本市内の駅、肥薩線の多くの駅、くま川鉄道に熊本電鉄がそれである。これらの回収のため、どうせもう一度は駅目的で九州にやってくるので、福岡はそのタイミングで良いだろうという判断。そしてもう一つは、これから向かう広島県の手前、山口県の東部にある厄介な路線錦川清流線の存在にあった。

 山口県コンプリートを目指す上では、あと美祢線と錦川清流線を押さえる必要があるのだが、後者はアイテムを使っても普通ではコンプリート出来ない。一応、岩国駅だとか新岩国駅辺りから乗り換えることはできるのだが、かなり内陸部に入り込んでいる関係で、JR路線からだと奥地の駅までどうやってもレーダー射程が足りない。というか終着駅である錦町駅は、たぶん反対側に当たる山口線方面からのレーダーでも、射程距離圏外となる。あとは中国自動車道側からならレーダーが届きそうではあるけれど、中国自動車道を走ることなど金輪際ないのではないか。名古屋発九州行き夜行バスがあるいは通るのかもしれないが、普通に考えるとそういったバスが走るのは山陽自動車道である。よしんば中国自動車道を走っていたとして、錦川清流線に最接近するタイミングで起きているのは現実的ではない。というわけで、この路線をいかにして制覇するかが懸案となっていたのだけれど、九州から広島に移動する行きがけの駄賃に乗り込むことはできるのではないか。そう考えたのだった。調べてみると、若干乗り継ぎ待ちの時間は長めだけれど、錦町まで寄り道しても、広島駅に着くのは20時半少し前という常識的な時間に落ち着くことが分かった。どうせなら、途中駅で折り返す前提で残りの駅はレーダーで取るというのも考えたのだけれど、折り返しが可能な最後の途中駅、どうやら北河内駅というらしいが、そこまで進んでも錦町駅まではレーダー射程が足りなさそうなので、おとなしくこのマイナー路線に付き合うことにしたのだった。

画像 新岩国駅で新幹線を降りる。生涯でもう一度この駅に降り立つことがあるのだろうかと思わずにはいられないほど、普通なら用事が思い当たらない駅である。岩国と言えば錦帯橋だ岩国城だといった観光地はあるが、いずれも新岩国駅が最寄り駅だとは言い難い。一応、新岩国駅からそちら方面への路線バスも出ているが、新岩国駅は古くからの岩国の町からは半ば隔絶されたような山陰に設置されており、利便性その他を総合的に勘案すると、広島駅でのぞみを降り、在来線で岩国駅辺りまで進むアクセスルートの方が現実味がある。というか、錦帯橋も岩国城もすでに見物したことはあるので、なかなか岩国自体に用事もない。

 錦川清流線の駅は、新岩国駅の南方200mほどのところにあり、清流新岩国駅という。漢字五文字のなんだか仰々しい駅名だけれど、清流はたぶん路線名を表し、新岩国は近在する二つの新岩国駅のうちの一つ程度の意味なのだろう。要するに名鉄名古屋とか近鉄名古屋と同じノリの駅名なのだと思う。ただ、駅の規模は簡素ながら新幹線駅である無印新岩国駅とは雲泥の差といったところで、清流新岩国駅は小さな無人駅なのだった。小さなホームには、貨車の一部を転用したと思しき待合室があるが、それ以外には特に何もない。この待合室の入口には御庄駅という駅名が掲げられていたが、清流新岩国という駅名にはそんなに歴史がなく、平成25年の春に現在の名前になったものらしい。御庄駅とは昔の名前である。

画像 駅の様子を探っていると、鉄道使いのオーラを立ち上らせた男たちが、数人ばかりホームに屯しているのが見えたが、彼らは皆、やがて岩国駅方面に向かう列車に乗って姿を消してしまった。後には、がらんとした無人のホームが残った。所在なく、ホーム上をうろうろする。ふと視線を下の方に向けると、「駅・車内におけるスマートフォンの位置情報を活用したゲームアプリ等」の利用はNGという意味の注意書きがあった。まさに駅メモ狙い撃ちのような注意書きだ。駅メモはわりと殺伐としたゲームなので、そのあたりが問題になったか。あまりに何もないホームで暇を持て余すようになってきたので、新幹線の新岩国駅の方に戻りつつ、とりあえず駅の外から清流新岩国駅を取った。そしてJR新岩国駅で時間をつぶした。こちらも何もない駅ではあるけれど、それでもセブンイレブンが入っている。そのなんと素晴らしいことかと、コンビニのありがたさを再認識した。特に何か買い物したわけでもないけれど。

 やがて、約1時間の待ち時間の後、錦町に向かう列車がやって来た。オオサンショウウオか何かの絵をあしらった、いかにも清流っぽいデザインの列車である。乗客層は謎めいている。見るからに沿線住民という乗客もいるが、家族がいるのかいないのか、余暇を沿線の山里で過ごしに来ましたという風に見えなくもない中年男もいる。この中年男が、本当に観光目的だったのかどうかは定かではないが、清流の名を冠するだけあって、車窓から見える風景は悪くはなく、癒しがある。一般にはド田舎とか秘境駅とかのイメージが先行するらしい錦川清流線沿線だけれど、特に駅周辺を中心にして、意外と多くの民家が立ち並んでいて、その多くの窓に明かりが灯っている辺り、生活感も濃密に漂っている。過疎地とか限界集落とかいったものと、まったく同列に語ることはできなさそうだ。また、清流であるところの錦川の川べりでは、デイキャンプを楽しむ家族連れの姿もある。さすがに日もだいぶ傾いてきて、特にこの山間の地だと薄暗くなってきているので、彼らもそのうちに撤収するのかもしれないが、想像していたようなわびしさは意外なほどに感じられない。一方、車内からは一人、また一人と乗客が姿を消していく。結局、終点の錦町駅まで乗り続けた乗客は、私以外にはただ一人だけだった。

画像 何かの縁があってここまでやって来たのだし、せっかくだから錦町駅で降りてみる。沿線の多くの駅は、ホームと待合室があるだけの簡素な駅が多かったのだが、この駅は比較的大きな建物を併設していた。田舎の駅によくあるように、駅以外のほかの機能も担っていそうな雰囲気ではあったけれど、換言すればコミュニティの一つの中心になっていると見ても良そうだ。駅前には周辺の観光案内図があり、華やかで押し出しの強い観光地こそ目に着かなかったけれど、山間の町らしい素朴な見どころには事欠かなそうだ。何もないを楽しみに来る心のゆとりがあれば、悪いところではないのかもしれない。ただ、見たところ旅館や民宿のような宿泊施設も目につかなかった。看板を見ている間に、駅前のロータリーに止まっていたタクシーがどこかへ走り去った。客を乗せていたようではなかった。おそらく、私が乗ってきた列車に客がいるのではないかと待ち構えていたのだろうが、その可能性のありそうだった一人のおっさんが、特にタクシーを欲していなさそうなので、今日のここでの営業を終了したということなのだろう。辺りは、確実に暗くなり始めている。この後にももう一本、岩国駅方面からの列車はあるようだが、先ほどの車中の様子からして、さほど多くの乗客はいなさそうだ。かくいう私も、もう10分ほどで錦町駅を出る列車に乗り損ねると、その後の展開は結構厳しいものになるので、大事を取ってくだんの列車に乗り込むことにした。と言ってそれは、私がここに来るのにやってきた列車がそのまま折り返し運転をするだけのものなのだけれど。

 かくて、1時間ほど前に通り過ぎてきた道を引き返す。錦町駅を出る頃には日も没していて、間もなく窓の向こうは真っ暗闇になった。さすがにこれでは旅情も何もあったものではない。半ばやっつけ仕事みたいにしてやって来たものの、もう少し明るい時間帯に、車窓の風景を楽しみながらやってきても良かったかもしれない。沿線に有名観光地こそないけれど、この路線にはそれだけの価値があるとも思った。

 新幹線への乗り継ぎは、比較的スムーズに済んだ。広島まで進んだ後は、早々に宿に向かい、明日に向けて英気を養う。広島もまた、いつかの豪雨災害の影響で不通のままになっている路線が少なからずあるが、明日は、アストラムラインと呉線を取りにかかる予定だ。

つづく

令和最初の九州旅・その4

 大都市近郊で鉄道路線が増え、それに属する駅が増えるというのは良くある話である。首都圏は言わずもがな、政令指定都市を抱える大型県の周辺でも、ごく当たり前のようにそういうことが発生する。古くから100万以上の人口があった福岡市周辺で路線数が多くなるのも当たり前のことなのだが、こと福岡に関しては、他の地域にはない傾向が見られる。一般には、地域の中核となる都市の玄関駅をハブにして、放射状に路線が四通八達していくことになるのだけれど、福岡の場合、県都の駅である博多駅から路線が広がっていくのではなく、県内東部の筑豊地方に属する周辺市町に蜘蛛の巣のようにローカル線網がめぐらされていて、ものによっては福岡市をかすめもしないこともあるなど、独特である。土地勘のない旅行者には、どこをどんな路線が通っているのかを非常に把握しづらい。それほど詳しく調べたわけではないが、これらの路線は福岡市と周辺のベッドタウンを結ぶために敷設されたものではなく、炭鉱開発の時代、筑豊地方の鉱山を行き交う物資を輸送するために整備されたことに出自が求められるのではないかと踏んでいる。

 ただ、普通の旅人がこれらの路線を自在に乗りこなす必要に迫られるかといえば、そんなことはない。基本的には博多駅に発着する本線格の路線や新幹線、場合により並行する西鉄などの私鉄を使えば十分なのであって、数多いローカル線に乗る機会は、簡単には想像できない。が、そうも行っていられないのが駅の思い出集めの旅である。駅の先に目的地はなくても、駅に行くことそれ自体のために、これらの路線を攻めていかなければならない。効率的な乗り回し方を考えるのも面倒くさくなりそうな路線図を描く福岡県内の制覇を考えるにあたって、今回で完全決着とは行かないまでも、とにかく目に付くところから一つずつつぶしていかざるをえまいと考えるに至った。特にそれは、JRに限らずほとんどすべての鉄道路線に乗車可能な九州満喫きっぷを持っている今回のうちに目鼻を付けておく必要がある。そこで今日は、福岡県内のやたら細かい鉄道路線を、専らそれに乗ることを目的としてあっちこっちへ行ったり来たりする日とした。完全に、乗り鉄の旅である。計画は、事前に机上で子細に検討したが、その結果、行動予定表なしではいつどの路線をどのように乗り継いだら良いのかさえわからなくなりそうな計画が組みあがった。しかも、今のところ復旧見通しが立たないまま長期運休状態に入っている日田彦山線のような路線を回収するという問題を解決するために、アイテム使用のタイミングまで事細かに設定したものだから、複雑怪奇はここに極まっている。

画像 朝5時前の博多駅に、駅の戦士たちが集ってくる。私が乗る列車は5時ちょうどにこの駅を出るはずなのだが、その時が迫ってきてもなかなか博多駅のドアは開放されなかった。こんな早い時間帯に駅を出る列車があるのは、始発駅ならではなのかもしれない。我が名古屋駅には、当駅始発の列車がないせいか、ムーンライト系列を除けば6時を回らないと列車がやってこないような気がする。いや、東海道本線に限って言えば名古屋駅は通過駅に過ぎないのだが、考えてみれば関西本線や中央本線は名古屋駅が始発駅となるはずなのに、これらもせいぜい6時前後にならないと名古屋駅を出発しない。JR東海の営業方針によるものなのだろうか。

 まずは鹿児島本線を小倉方面に向かう。過去に利用したことは一度や二度ではない路線だけれど、同時に九州を離れるときには博多から新幹線に乗ってしまうのが常なので、意外にも博多近郊から小倉までの区間はこれまで取り残してきてしまった。ただ、このタイミングで鹿児島本線を仕上げるというより、まずは戸畑駅まで向かう心づもりだ。最初に狙うは、通称若松線。折尾駅から始まる盲腸線で、正式には筑豊本線の一部ということになる。駅メモ的には盲腸線があまりうれしくないので、戸畑駅と若松駅を結ぶ渡船を利用して始発駅から一気に筑豊本線を攻め上げるつもりでいた。が、分岐点となる折尾駅を目前にして鹿児島本線と若松線の乗り継ぎが思いのほかに良いことが判明した。今日はどうせもう一度小倉から博多に進むつもりでいるので、折尾から鹿児島本線を外しても実害はない。そしてここで若松線攻略にいち早く着手すれば、後の行程が楽になるのではないか。乗換案内サイトでこれ以降の乗り換えを調べてみると、少なくとも以後数路線の乗り換えまでは当初の計画よりも優位を保てそうだと分かったので、急遽戸畑駅まで進むのをやめて若松線に入ることにした。さようなら、若戸渡船。

画像 若松線に属する駅は、若松駅も含めて6駅しかなく、しかも駅間の距離はかなり短い。あっという間に若松駅にたどり着いた。改札には、そんなに職務熱心とは思えない感じの駅員がいて、たぶん地元民なのだろう顔見知りらしき駅利用者と雑談をかわしていた。一応満喫きっぷを提示して改札を出たが、ほとんどこちらの様子を見ていないだった。とりあえず、駅舎の外に出てみる。まさに都市郊外の端末駅を地で行くような、地味で小さな駅である。駅前のロータリーにはタクシーが止まっていたが、その広さのわりに人気がなく、がらんとしている。まあ午前7時前という時間帯だし、仕方がないところか。それにしても、もしこのゲームをはじめなければ、私はこの駅に来ることがあっただろうか。たぶんなかったに違いない。どうかすると、今回ここにやって来たのだってちょっとしためぐりあわせの妙だったのかもしれないのだから。若松線は、たぶん対岸の鹿児島本線を行く旅行者からのものと思われるレーダー砲撃に頻繁にさらされているようだった。

画像 若松駅で若干の時間ができたので、もう一度、今の時間から若松駅を出発したとして、今日のこの後のスケジュールがどのようになるのかを確認してみた。結果、田川伊田駅からの列車本数が少ないため、ゴール時間には何の影響もないことが分かった。ちょっと悔しいところだけれど、この何もない駅で足踏みしていても仕方がないので、先に進むことにする。まずは直方駅まで筑豊本線で移動。その後、平成筑豊鉄道伊田線に乗り換えて金田駅まで。並行する福北ゆたか線をレーダーで取っていく。金田駅からは同糸田線で田川後藤寺駅まで進む。道中、レーダーを使って取りこぼしとなる伊田線所属の駅、上金田、立花、田川市立病院、下井田を回収。さらに田川後藤寺駅からJRの日田彦山線に乗り換えて一駅だけ先の田川伊田駅まで移動。再び平成筑豊鉄道の田川線に乗り換え。後は基本的に行橋駅まで田川線に乗り続けることになるが、途中の赤駅~油須原駅間で、レーダー射程を最大にして日田彦山線の豊前川崎、西添田、添田、勧遊舎ひこさん、豊前桝田を回収。実は昨日、久大本線に乗った時に筑前大石駅からも日田彦山線南部の駅を取っていたため、形の上ではこれで日田彦山線の不通区間は全通させたことになる。なんだかインチキ臭いけれど。

 平成筑豊鉄道は、もとをただすと国鉄の路線だった伊田線・糸田線・田川線を継承して発足した鉄道会社なのだそうだ。名前は、同社の設立が平成元年の出来事だったことにちなむようである。国鉄民営化が昭和62年4月1日のことだったので、2年足らずの期間は、これらの路線がJRの所管路線だったこになるが、いずれにせよその後を受けた平成筑豊鉄道は、文字通り平成の申し子のような鉄道事業者だったということになる。それが今、令和という新時代を迎えるに至っている。なんだかここ筑豊地方は、良くも悪くも昭和だの平成だのの時代の空気と結びつく何かを宿しているような気がする。筑豊と言えば、昔社会の事業で習った筑豊炭田のイメージだし、これは昭和の時代に隆盛と衰退を見た。そこを行く列車は、平成の幕開けとほぼ同時に産声を上げた。先入観をもって見られるという弊害はあるのかもしれないが、特定の時代区分とリンクして捉えられることは、まんざら悪いことではないような気がする。

 さて、令和という新時代を象徴することになる地は、日本のどこに生まれるのだろうか。ちなみに筑豊と言えばボタ山のイメージなのだが、現在の筑豊地方には見るからにボタ山でござい~という感じの山は見当たらなかった。現在ではその多くが植生に覆われ、素人目には普通の山と区別がつかなくなっているらしい。さらに余談で田川線には変わった駅名が多かった。今川河童駅とか源じいの森駅とか。もう一つ特徴と言えば、この近辺を走る列車の車中には、「車内の床に座り込むな」だの、「ごみを車内やシートのすき間に捨てるな」だのと言った貼り紙が多い。今は休日の朝方という時間帯なので乗客の姿もちらほらと言った感じだけれど、普段はわりと殺伐とした雰囲気があるのかもしれない。そんな中にあっても、マスコットキャラクターのちくまるだけはかわいらしい。

 あれこれ思索にふけりながら、行橋駅に到着。日豊本線を城野駅まで移動し、ここで北九州モノレールに乗り換え。乗り換えの際、ルートビューンを使って日田彦山線のうち城野―上伊田間を開通させた。これでほとんど実乗しないうちに日田彦山線とは決着をつけることができた。日田彦山線は、岩石城攻めを実行に移す際に利用する目があるので勝負を焦ったかもしれないという思いはあるが、列車に乗った実績はまた改めて作ればよいかと思うことにした。

 さて、城野という同名駅がJRとモノレールの双方にあるので、簡単な乗り換えかと思っていたが、実際には数百メートルくらいは離れた、事実上全く別の駅なのだった。それでも計画を破綻させることなく乗り換えを果たし、先に南端の企救丘駅まで移動し、その後小倉駅まで折り返した。ここからは博多方面に戻り、後は香椎線と勝田線(廃線)を回収する心づもりだけれど、まずは腹ごしらえと、立ち食いうどん屋で屋号にもなっている玄海うどんを頂く。悪くはなかったが、その後ホームに降りて行った際、立ち食いとんこつラーメンの店があるのを見つけ、ちょっと早まったかなと思った。

 小倉駅から、鹿児島本線でもう一度博多方面に戻る。折尾駅まで進んだところで、鹿児島本線の全駅奪取が完了し、門司港から鹿児島中央までがつながった。まあ実際には、八代から川内までの元鹿児島本線区間が現在では肥薩おれんじ鉄道となっているため、物理的に一本の線でつながるというわけにはいかないのだけれど、九州の背骨とも言える線を全て押さえたことについては感慨深い。そのまま、香椎駅まで行って香椎線を制覇。沿線では、一度香椎神宮に行ってみるのも良いかなとは思うのだけれど、それ以外いどういったものが近くにあるのかよくわからない、そんな地味目の路線である。ちなみに、終着駅は宇美駅。むしろ山間部にある。この香椎線沿線には、かつて勝田線という路線があった。かつてと表現した以上、現在は廃線となっているのだが、この場で話題に上せるということは、ゲーム上に廃駅データが存在している。それがどんな路線だったのか皆目見当もつかないが、香椎線周辺を徘徊しながらこれを回収し、最後に長者原駅から篠栗線に乗り換えて博多に戻る。これにて、九州の旅は一巻の終わりである。

つづく

令和最初の九州旅・その3

画像 長崎の短い夜は明けた。この種の旅としては比較的遅い6時半過ぎに宿を出て、まずは少し西側に位置する浜町アーケード駅に向かう。繰り返しになるが、ここは駅というよりも電停である。駅舎はもちろん、ホームといった普通の駅のような施設はなく、路面電車が走る道路上の一画に、小さな乗降所があるだけの場所だ。長崎最後のひと駅としては誠につつましやかではあるけれど、とにかくここにチェックインして長崎制覇は成った。ちなみに、駅としては後発で、しかも規模が小さいと来ている浜町アーケードだが、その名が表す商店街は国道沿いに営まれている。ナンバリングで言うと国道324号に該当するのだが、このアーケード区間は、日中は歩行者専用道路となっており、車で通行することができない。それだけに、国道マニアたちの熱い視線を集めている。

画像 国道324号は、やがて海を渡って天草に至る。私も本来なら海を渡って福江島に行くつもりでいたのだが、ゴールデンウィークを甘く見ていた。頼みの綱のジェットフォイルは、当てにしていた便に限って予約で満席、それ以外の便で島に渡ろうとすると後の日程がまるで成立しなくなるため、諦めざるを得なくなった。港洋館で手を打ったのは、ここが港に近いこともあったのだが、その利点を生かすこともかなわず、今日の私は至極素直に、鉄道で福岡方面に向かう。ただし、長崎福岡間の移動で第一選択に上がるであろう長崎本線は利用せず、大村線、佐世保線と移動し、肥前山口駅でようやく長崎本線に合流する。長崎本線が有明海沿いに走る路線であるのに対し、このルートだと大村湾沿いに北上し、ハウステンボスを横目に見た直後、佐賀県西部の内陸地域に入る。鉄道路線的にも未踏の地ではないが、筑肥線の取りこぼしを回収するためにこの地までやって来た。上有田駅を通過し、三間坂(みまさか)駅が迫ってくる頃が、決戦の狼煙が上がるときである。ただ、実際やってみると決着はあっという間についてしまった。取り残しと言っても上伊万里駅、金石原駅の二駅だけ。筑肥線に属するこれらの駅を佐世保線側からレーダーを使って取るという、最近とみに増えてきたパターンのミッションを自分に課していたのだが、簡単すぎて拍子抜けした。まあ、勝算があればこそ、ここまでやって来たのだけれど。

 今日はこの後、久大本線に入って豊後森駅まで進む。九州北部では、交通の結束点の一つとなっているはずの久留米駅を、実に昨日まで取れていなかったのは意外といえば意外な展開だったのだけれど、やっぱり久留米は交通の要衝なのだ。昨日の今日でこの地を踏み、ここから久大本線に入る。以前に西鉄その他に乗車した際や、昨日新幹線に乗った時から気になっていた久大本線所属の駅をどんどん回収していく。久大本線は、久留米と大分を結ぶ路線なのでその頭文字を並べている。昨日、間近まで迫った由布院駅、久住山から繰り返しアクセスした豊後中村駅も、この久大本線に属する。九州の旅で東西の移動をする機会はまれながら、この路線には乗ったことがある。今日の目的地、豊後森駅から近い、否、やや近いところにある角牟礼城を以前取り損ねている。今日はその雪辱のために豊後森を目指すというわけだ。

 前回は、大分から豊後森に向かい、豊後森から久留米まで抜けているのだけれど、特急を使わない場合の乗り継ぎに難があるため、真っ暗になった久留米駅にたどり着いた記憶がある。そんな昔語りもしつつ、過去すでに乗車したことがある駅だから、今回のゲーム上はアイテム回収を可とするマイルールにより、昨日のうちに由布院駅前にいたころから、豊後森の一つ大分方の恵良駅まで、レーダーで対応した。今日、実際に列車に揺られて豊後森駅までやって来たことにより、久大本線はめでたく全通した。

 前回の豊後森以西の区間は、冬の夕暮れなど悪条件重なる中で通過したこともあって、これという印象も持っていなかったが、初夏も近い日中にやってくると、なかなかどうして旅情豊かな路線のようである。河童みたいな駅もあれば、温泉もある。そして、レトロ調に整備された豊後森駅周辺も、これという産業もない過疎地の山村とは一味違った味わい深い町並みが広がっている。それに伐株山(きりかぶ)山や大岩扇山など、特徴的な山容をした山も良く目につき、自然の風景も印象的だ。ただ、伐株山などは昔地理の授業で習ったメサ、つまり卓状台地らしいので、一般に言われる山とまったく同列に並べて良いようなものなのかどうかはわからない。また、目指す角牟礼城がある角牟礼山はメサの浸食がさらに進んだビュートの地形に該当するのだという。

 時に角牟礼城だが、続日本百名城の一つに選定されている。べ、別にそういったタイトルを獲得したからすり寄っていったのではなくて、初回の訪問は続日本百名城の選定より前の2013年末のことなので、前々からちゃんと注目してたのである。以前ぶ来たときは、昼の短い季節だったのせいか行動時間に制約を受けたのに加え、天気もさえなかったので、それが途中退却につながったものと記憶している。城があるのが同名の山であるという事実が物語るよう、この城は山城なので、悪条件下での攻略はなかなか厳しい。

画像 国の史跡にも指定されている角牟礼城は、良好な保存状態の遺構を残すことでよく知られている。だからこその百名城なのだし、むしろ、都合があったにせよ第一弾で百選に入れなかったのが腑に落ちないほどのものである。ただ、歴史的に有名な城かと言えばそうでもなく、古くは在地の領主であった森氏の城だったのが、戦国時代の戦乱において、要衝の城として重要さを増していったものと考えられている。この城が、その名望を高めたのは島津氏による豊後攻めの時のことで、北九州の太守であった大友宗麟が島津氏の攻勢の前に風前の灯火となる中でも、ついに陥れられることはなかったと伝えられている。豊臣秀吉による天下の統一が成った後は、その配下であった毛利高政によって更なる改修を経たが、関ケ原の戦い後に村上水軍の一派として知られる来島長親がこの地に封じられた際に、廃城となった。来島氏が立藩した森藩の表高は1万4千石に過ぎず、城持ち大名の格ではなかったとされている。

 とはいえ、現在も見られる角牟礼城の遺構には、廃城とするには過分とも言える石垣が含まれている。その石積みは穴太積の技法が用いられているとされ、織豊系の大名であった毛利氏による支配時代の特徴が良く表れているのかもしれない。石垣の規模は大きく、本丸、二ノ丸、三ノ丸と配された曲輪の周囲を巻くようにして、今も十数カ所ほども残存している。このほか、土塁や切岸といったより古い時代の城郭遺構も残されており、来島氏時代に表向き役割を終えたものとは言っても、どうやら徹底的な破却は免れたものと見える。森藩においては、角牟山の麓に陣屋が置かれたが、この陣屋も実態を見れば石垣を備えた城のような構えのものだったため、有事の際に廃城を運用しようという発想もわずかながらあったのかもしれない。なお、陣屋の方は森陣屋あるいは久留島陣屋などと呼ばれ、現在まで残された庭園などは、国指定の名勝となっている。ちなみに、角牟礼山は前述した通り、ビュートに分類される独立丘の形状をしているため、標高は600mに届かない程度ながら、九重方面に対してよく展望が利く。

 海の向こうの福江城が新たな宿題になってしまった感はあるけれど、数年来の宿願だった角牟礼城は落とすことができたので、今回はこれで良しとしよう。満足しながら豊後森駅に戻ろうとしたとき、田舎町だからと油断したせいか道を間違えた。迷子になるほど入り組んだ道ではないので事なきを得たが、そんな中、この駅の近くにはSLを展示する施設があるらしいことを知った。鉄道使いは、城よりもこちらを目指すのだろうか。ともあれ、この玖珠町は全国的には無名に近い町ながら、やはり味わい深い観光資源は多そうである。

 来た道を引き返し、今度は博多駅まで進む。次の目的地はJR筑肥線で新たに開業した糸島高校前駅。中途半端に一駅だけを取り残す形になっているため、放っておくといつまでも福岡制覇ができないことになる。これは、さっさとつぶしておきたかった。筑肥線に進むにあたって、博多駅でいったんJRを降り、地下鉄空港線に乗り換えて姪浜駅まで進む必要がある。地下鉄と筑肥線は相互乗り入れを行っているが、博多駅に収れんするJR各路線と地下鉄はつながっていないので、一度JR博多駅の改札を出る必要がある。そんなときでも九州満喫きっぷがあれば、改札は文字通りきっぷを改める場所でしかなく、切符を買いなおす必要がない。何となく得した気分になる。

 糸島高校前駅は、福岡県でも西のはずれに近いところに位置しており、いくらか進めば佐賀県に入ってしまうようなところらしい。果たして一駅取るためだけにそこまで進む価値があるのかどうかは、悩ましいところがある。悶々と思い煩いながら筑前前原駅まで進むと、糸島高校前駅がレーダー射程に入った。腹は決まった。ここでレーダーを使って糸島高校前駅を取ってしまおう。なんだか、名前からして沿線住人の生活の場、というか高校生の通学用に使われる駅という感じがするので、観光客が行って面白そうな駅には思えない。筑肥線自体はすでに何度か通しで乗っているので、その途中に一駅が後からできたからと言って、わざわざ現地まで行く必要はなかろう。そういうことにし、折り返す。

 天神駅まで戻り、そこから天神南駅まで移動。ともに福岡市営地下鉄の駅だが、近接していながらつながっておらず、地下鉄空港線と地下鉄七隈線の乗り換えのためには地下街を5分余りも歩く必要がある。七隈線を走る列車は、一般に実用本位のイメージが先行する地下鉄の列車としては異色とも言えるほどに、近代的なムードをまとっていた。JR九州にしてもそうだが、九州の電車はやたらデザインの凝ったものが多く、土地柄なのだろうか。鉄道事業者同士で、デザインを競おうという発想が生まれるのかもしれない。残念なのは、地下鉄なのでどこまで行っても景色が変わらないことだが、約30分で終点の橋本駅まで行った後、再び天神南駅まで折り返す。七隈線を取って、今日の行程は終了である。この後は、例によってラーメンスタジアムでラーメンでも食って宿に引き上げることにする。

 ところで、博多駅に着くまで全く知らなかったのだが、ゴールデンウィーク中は、かの有名な博多どんたくの開催期間に当たるのだった。博多駅の構内に、以前どこかで見かけたことのあるどんたく仮面(仮称)が捨てられているのを見てピンと来たのだが、幸か不幸か、私が福岡市の中心部に戻る頃には博多どんたくの主だった催しはほぼほぼ終了していた。無論、数日にわたるお祭りなので、明日は明日でまた新たな催事が始まるのだけれど、私はそれらの催事が開始される前に一度博多を離れることになる。今回の宿は、ウェルビーが抑えられなかったので、博多駅からほど近いところにある古めかしいビジネスホテルになったのだが、その割に宿泊料が高かったのは、ゴールデンウィーク料金であるというのみならず、どんたく料金だったのだろう。私の旅程ではそのどんたく料金の元を取れないのだが、チェックインの際フロントで早発したい意思を伝えると、幾分若作り風だが気の良さそうなフロントのおじさんは面食らったような反応を見せたが、すでに金はもらっているので、出がけに部屋の鍵だけフロントに置いていってくれればそれで良いというようなことを言ってくれた。

 ホテルの館内は、外観相応に古色を覆い隠すべくもなかったが、客室内は思っていたよりはずっと綺麗だった。通りの物音や館内の物音が良く響くのも安いホテルにはありがちな特徴ではあったが、普段、おそらくは安価だとするなら、値段相応と我慢できる程度のものなのだろう。博多駅に近いことを加味すれば、たぶんコストパフォーマンスはいい宿ということになる。今日は思いがけず高い宿となってしまったが、人の良さそうな主に免じて、不平を言うのはよそうと思った。

つづく

令和最初の九州旅・その2

 九州横断バスは、別府と熊本の間を行き来している。起終点の位置関係だけに注目すると、都市間高速バスが走っていてもおかしくなさそうな距離となるが、実際には交差点も多くはない九州中央部の山地を走る時間が長く、高速道路上を走るものではない。それだけに、土地勘がないとどこをどのように走るものなのかほとんど見当がつかない。主要停留所のうち、それがどこだかわかるのは別府と熊本以外だと、由布院のバスセンター、今回利用した牧ノ戸峠、阿蘇駅くらいのものである。そんな九州横断バスは、やまなみハイウェイを下ると三愛レストハウスというドライブインに停車した。水着の販売でもしていそうな名前だけれど、いたって普通のドライブイン、いや規模の大きさや施設の充実度で言えば大型の道の駅と同等と言っても過言ではなさそうだ。どうやらここは、単なる停車バス停の扱いではなく、休憩場所も兼ねているらしい。まあ、最初から最後まで乗り続けるとなると4時間前後の長丁場となるため、休憩も必要になるか。バスはこの後、もう一度阿蘇駅でも休憩を取るらしい。

 この観光路線の中で、クライマックスとなるのが阿蘇くじゅう国立公園のエリアということになるのだと思う。このうち、九重地域はすでに終わったことになるはずだが、この先にはまだ阿蘇が控えている。長らくあこがれてきた阿蘇。あこがれているうちに地震が発生し、鉄道は不通になり、国道も寸断された。いつかまた落ち着いてやって来たいところだが、今日は下見くらいのつもりで通り抜けようかと思う。一応、バスが阿蘇駅前を経由する以上は、最低限の交通経路は復旧しているということにはなるのだろうが、今当地がどのような状態になっているのかは不勉強でよくわかっていない。

 再び走り出したバスは、黒川温泉といういかにも観光地っぽい地名の地域を抜け、南小国町役場を経由し、草生す丘陵地を走っていく。有名な草千里ヶ浜などは、ちょうどこんな雰囲気の場所なのだろうかとは思うが、無論ここは草千里などではなく、名もない草原である。観光地としてはまるっきり無名の地域にこれだけの美観が広がっているというところに、国立公園の底力を感じる。やはり、愛知とかその近辺にある国定公園とは格がまるで違う。やがてバスは、カルデラ盆地の向こうに中岳をはじめとする阿蘇の主要山岳を見ながら盆地の底へと下っていく。

画像 車内放送では、俗に阿蘇山と呼ばれるものが単一の山のことを指すのではなく、阿蘇五岳と呼ばれる中核的な山々と外輪山からなるものであるということを説明している。バスが走っているのは、まさにその外輪山の内側、カルデラ底なのだが、外輪山によって形成されるカルデラの外縁部の大きさに圧倒される。かつての火山の成れの果てがこれだけの規模を誇っているとなると、元はどれほどの山だったのかと空恐ろしくなる。よく言われる阿蘇山が本気を出したら、九州のほとんどは瞬く間に焼き尽くされ、それ以外の日本国内の大半の地域も、都市インフラが壊滅的な打撃を受けて緩慢に死んでいくことになるというシナリオがにわかに現実味を帯びてくる。本気の阿蘇山からは逃げも隠れもできないので、ダメな時は何をやってもダメなのだからと、腹をくくって周辺観光してみるのも一興なのではないかという気にもなってくる。

画像 そんなやばい思考に陥りかけ始めた頃、バスは阿蘇駅に到着した。豊肥本線は、大分駅からここ阿蘇駅までは現在も走っているのだけれど、阿蘇駅から熊本方の肥後大津駅まではいまだ不通の状態が続いている。九州横断バスを使えば、この不通部分の駅を取ることは可能だと思われる。それは良いとして、阿蘇駅の南の中央火口丘のさらに南側を走る南阿蘇鉄道は、普通では取れない。というか、豊肥本線不通区間に位置する立野駅から、日本一長い名の駅として知られる南阿蘇水の生まれる里白水高原駅の区間はいまだ復旧しておらず、2~3年はこの状態が続きそうだ。ということで、節を屈して阿蘇駅周辺からレーダーを使ってみたところ、一応全駅を取ることができたので、アイテム頼りながらコンプリートを達成した。ということにしておく。実際のところ、バスの経路上のいろいろな地点から少しずつ切り崩さなければ南阿蘇鉄道の全駅は集められないのではないかと踏んでいたが、たまたまイベント時期と重なってレーダーの射程が伸びていたのに加え、スキルだのドーピング用のアイテムだのを併用できたのが大きかったのかもしれない。そしてこれは、後日近くを通ることになる日田彦山線の攻略に向けた曙光になるかに思われたが、それはまた別の話。

画像 とにかく、この日最大の難所になるかと思われた南阿蘇鉄道の攻略が完了したので気を良くしていたのだけれど、落とし穴はこの後に控えていた。阿蘇駅を出た後、バスは国道57号沿いに西へ向かい、赤水駅の北側から外輪山を越える道に入って肥後大津駅に至ることになっていたのだが、この国道部分で大渋滞が発生していた。何しろゴールデンウィーク、しかも前代未聞の10連休の中日なので、そういうことが起こるのも仕方がないと覚悟はしていたのだけれど、遅れは順調に拡大していく。遅れが生じると、この後の計画が厳しいことになる。当初の予定では、熊本から鳥栖までは在来線を使い、鳥栖から長崎まで特急を使うつもりでいた。虎の子の旅名人の九州満喫きっぷは、この日熊本~鳥栖間でのみ使うつもりでいたのだが、もとよりバスからの乗り換えにそれほど余裕がない接続となっていたので、10分20分と経過しても渋滞が終わらなかった段階で、誠に遺憾ながら九州満喫きっぷの使用は諦めざるを得なくなった。

 しかし、事態の悪化はそれだけではとどまらず、結局ボトルネックとなる区間を抜けて肥後大津駅にたどり着いたときには、1時間余りの遅れが生じていた。この頃には、挽回のために新幹線を使う覚悟は決めていたのだけれど、今度は新幹線を使っても、長崎着が22時を回るスケジュールが見え始めていた。一応、これが最終というわけではないが、今きわどいことになっている新幹線への乗り継ぎをきめられなくなると、長崎行きは最終の特急に望みをつなぐことになる。よもやそれにさえ間に合わなくなることはないにせよ、最終特急だと長崎駅に着くのは23時になる。今日の宿のチェックインは、かかる事態がうっすらと想定されたために23時として予約してあったのだけれど、だからと言ってこの時間にようやく宿に入れるというのはうれしくない。何とかして遅れが挽回されないかと祈る私の思いを知ってか知らずか、バスは肥後大津駅に到着したのだった。

 全くうかつだったのだが、この時肥後大津駅に熊本行きと思われる列車が止まっているのが見えた。熊本までバスを使うという発想から脱しきれなかったのが敗因だったのだが、この熊本行き列車を使えば、次善のプランとして考えていた終電より一本早い特急に乗り継げる新幹線を確実に捕まえることができたのだ。ここで九州横断バスを切っても、鉄道利用分の運賃はどのみち満喫きっぷで賄えるので、ここでは追加出費は発生しないし、実費負担となってもその額は知れていた。が、現実には、最後までバスに乗り続けることを選択してしまった。結果、長崎入りは最終の特急によることが避けられない情勢となった。

画像 怪我の功名というのか、九州横断バスはおおむね熊本市電B系統に沿って熊本駅に至ったので、丸々取り残していたこの路線をコンプリートすることはできたのだけれど、その代償はあまりに高くついた感が否めない。今日の夕食は、何ならチェックイン後に宿で食べることも考えていたのだけれど、寝床に入るだけで日付の変わる時刻が間近に迫りそうな情勢となると、熊本駅で食事を済ませてしまおうと思った。昔、熊本駅がまだ古い駅舎で営業していた時、この駅にはホーム側から入れる吉野家があって助かったものだったが、九州新幹線が開業し、それに合わせて新たに生まれ変わった駅舎には、吉野家が見当たらず、ましてや安易に踏み込んだ新幹線の改札内には小さなセブンイレブンがあるだけだった。暖かいものは望むべくもなさそうだったし、わびしい夕食になったなあと思いながら、パンをかじり、新幹線を待った。巨大なくまモンの頭部が、人影もまばらになった構内で虚空を見つめているのが、何とはなしにわびしかった。

 しかし、皮肉なもので、今日九州新幹線を使ったことにより、鹿児島本線で取りこぼしていた久留米周辺の駅を回収でき、さらに新幹線専用駅で当面回収の見込みがないと思われていた新牟田駅も拾うことができた。これなども怪我の功名パート2と言ったところだろう。

 新鳥栖駅は、長崎本線の駅に後付けで新幹線のホームを作り足したのが明白な駅だった。古くからのターミナルの役割は、一つ隣の鳥栖駅が担っており、駅としての格も鳥栖駅の方が明らかに上なのだと思う。特に何もない新鳥栖駅のホームでさらに1時間近く待ち、やって来た最後の特急かもめに乗って、長崎駅を目指す。この長崎本線の旅で、これまた取り残していた長崎本線所属の駅を全て回収できた。前回は海路島原に渡り、島原鉄道で諫早へと抜け、さらに福岡方面への戻りへは松浦鉄道を使ったので、この区間が抜け落ちていたのだった。最後には、泥のような眠気と戦いながら、夢うつつでスマホをいじりつつのゴールとなった。考えてみれば、今日は朝が早かったのに加えて登山を一発決めていたのだった。眠くなるのも当然だ。

 長崎の宿は、前から存在は知りつつも使う機会のなかったサウナ&カプセル港洋館。昭和のオールナイトサウナの風情を色濃く残す宿ではあったけれど、値段は安いし、館内は古いなりにきれいに保たれていて、そんなに悪い宿ではなかった。これまでここを使うことがなかったのは、長崎駅前の路地裏にやたら安価な昭和のビジネスホテルがあったためだが、今後の長崎旅行では選択肢の一つに加えてみるのも悪くはない。ちなみに今回は、年が改まる頃から宿を押さえにかかったのに、くだんのビジネスホテルを押さえられなかったのでこちらの宿を使うことになった面もあるのだけれど、明日の行動を見越してここをチョイスする価値もあるだろうと思ったのもまた事実だ。明日は、朝一番でここからほど近い浜町アーケード駅(駅というか実態は路面電車の電停だが)を取って、長崎県制覇としたい。以前長崎に来た時、この駅はなかったのだけれど、1年ほど前に新設されたらしい。多くの場合、廃止された駅も廃駅というカテゴリーでゲームデータ上に残り続けるのだけれど、新しくできる駅は嫌でももう一度取りに行かざるを得ないので、こういう場合にちょっと上がりが遠のくのだった。

つづく

山登ってみよう【久住山】

画像 くじゅう山は、九州の最高峰で、標高は1791mである。用法が難しいところはあるけれど、九重山と書いた場合は、九州の屋根たる地域の火山群を意味することが多く、久住山と書くとその山群の盟主を意味する場合が多い。久住山の山頂は、1791mを誇る中岳にわずかに及ばない1786mだけれど、今回はこちら久住山を目指したい。ちなみにこの山塊は百名山の一つにも数えられているが、その登録名は九重山の方。地元の自治体は九重町で「ここのえまち」と来ているので、非常にカオスな様相を呈しているが、最近の山界隈では、ややこしいのでひらがなくじゅうで表記されることも多いようだ。

 由布院から九重、阿蘇に至るエリアは、九州でも有数の高原リゾート地なので、マイカー利用ならアクセスは容易である。マイカーがなくてもバスが走っていて、まずは亀の井バスの路線バスの一部が、別府からスタートして由布院の先に位置するくじゅうエリアまで乗り入れている。また、九州産交が走らせている九州横断バスも同じようなルートをたどって別府駅と熊本駅を結んでいる。注意が必要なのは、後者については基本予約制の定期観光バスの扱いとなっていることだ。ハイシーズンともなるとかなりの多客が見込まれるとともに、予約が多い場合は臨時増便があるとかないとかの話も聞く。今回の私は、亀の井バスで登山口となる牧ノ戸峠まで移動し、下山後は九州横断バスで熊本に抜ける方針である。

 事前に調べたところでは、7:37に別府駅西口を出るバスが、由布院駅前を経由して約2時間で牧ノ戸峠に着くらしく、非常に都合が良いので、港から多少無理をして別府駅まで移動したのだった。駅のコンビニでひとしきり準備をした後、バスは定刻通りにやって来たのだが、目的地の表示は由布院バスセンターとなっている。とにかく由布院方面に行く必要があるのは間違いないし、他にそれらしいバスもないので安易に乗り込んだが、やはり同じような思惑でこのバスを利用しようとしたらしい人も不審に思ったらしく、運転士にこのバスは牧ノ戸峠まで行くのかと聞いていた。それに対する返答を要約すると、このバスはあくまで由布院までしか行かないので、そこで次にやってくるバスを待つ必要があるとのこと。どうやら次に別府駅前を出るバスが、由布院バスセンターで九重方面行に化けるということのようで、このバスに乗っていくと湯布院で一時間ほど待つことになるという。

 なんだか話が違ってきているが、どうせ待つなら別府駅前より湯布院の方がいいだろうと思い、そのままバスに乗っていく。バスは途中で、以前に登った由布岳山麓の登山口の前を経由した。以前来た時、山頂付近は雲に覆われていて抜群の天気とは行かなかったが、今日は快晴となっている。少し悔しい気もしたが、その代わりにくじゅうが映えるので良しとしようではないか。バスは約1時間で由布院駅前のバスセンターに到着した。そこで受付窓口でのやり取りを盗み聞ぎしていて分かったことは、4月にダイヤ改正があって、私が乗るつもりだった牧ノ戸峠直通バスは、無くなったということだった。現在は、1時間遅れて別府駅前を出るバスが、由布院バスセンターで九重方面行に接続するという扱いになっているという。結局同一の車が別府から九重まで走ることになりはするものの、どうやら直通扱いではなく、由布院で一度運賃を精算した後、由布院から再度乗車する形となるらしかった。

画像 問題は専ら、登山開始時間が丸々一時間は遅れるという点にある。九州の最高峰に並ぶとは言うものの、久住山は登りやすい山と見え、累積標高も大したことがなければ、歩行時間もさほどのものではなさそうなので、持ち時間が1時間削られても山行自体を取りやめる必要はなさそうなのだが、どうやらほどなくやってくる九州横断バスなら、亀の井バスの路線バスで行く場合よりは30分ほど早く登山口に着ける計算になりそうだ。先に書いた通り、一応は予約制のバス、空席さえあれば、頼めば乗せてくれそうな気がしないでもなかったが、結局、予約不要の気楽さに負けて次の路線バスを待つことにした。九州横断バスは、幸か不幸かいくらかの空席を残したままバスセンターまでやってきて、そして走り去っていった。後に私は、この判断を悔いることになる。

画像 さらに30分ほど遅れてやって来た亀の井バスは、道中立ち寄った九重夢大吊橋付近で渋滞に巻き込まれてしまった。バスはいつしか、やまなみハイウェイと名付けられた九重の山並みと高原の風景が美しい観光路線に入っていたが、拡大する計画の遅れに心中は穏やかではなかった。結局牧ノ戸峠でバスを降りたのは11:12のこと。当初の計画で行った場合、下手すれば山頂直下まで迫っているくらいの時間帯ではないか、これ。引き上げに使うバスがこの場所にやってくるのは、14:41。ざっと計算して3時間半後だ。頭の中に漠然と存在していたコースタイムに、ざっと0.7をかければ間に合う計算となるし、たぶんそれで行けるような気もするが、今回に関してはここで帰りのバスに乗れなかった場合、リカバリーの方法がちょっと思い浮かばない。悪いことに、今日の宿は、明日以降の予定も踏まえて長崎で押さえてしまっていた。バスで別府まで戻った後、久大本線を経由して長崎本線に進むか。それも無理ではなさそうな気がするが、確証を持てない。結局、14:41にここ牧ノ戸峠に戻ってくることを必須事項とせざるを得なかった。3時間半を単純に2で割った1時間40分後、12時50分がポイントオブノーリターンとなる。12:50になったら、そのまま回れ右して戻って来なければならない。

画像 とにかく、今日は最初から飛ばしていく。すでに気温も高くなっていたので、しょっぱなから上着を脱ぎ、半そでのTシャツという軽装で歩き始めた。今回の山行は、その計画の都合上観光旅行装備で挑んでいるので、大荷物かつ不要な重量がかなり多いのが難なのだけれど、そこは心意気でカバーしたい。そう考え、勇んで歩き出したが、いきなりそんな決意をあざ笑うかのような急登。牧ノ戸登山口からの序盤は、一般観光客も散策で向かう牧ノ戸展望台までの道を兼ねているので、コンクリートで舗装されているが、やたらに傾斜した直線的な道である。まるっきり素人が設計したかのような心のない道なのだけれど、歯を食いしばって登る。この夏登るつもりの奥穂高…の前哨戦たる笠ヶ岳の笠新道は、北アルプス三大急登に比肩する急登なのだという。こんなところでへこたれてはいられない。まずはこの馬鹿げた登り坂に決着をつけるまで、20分ほどを要した。

 人工的な登山道が終わると、展望を遮っていた樹林は途絶え、岩場の卓越したいかにも火山らしい雰囲気の道となった。この辺りが沓掛山と言われるピークのようだ。もちろん、樹林限界を超えるような高度ではないので、灌木は生えているのだけれど、それらの途絶える隙間から、登山口にあった牧ノ戸の駐車場が見えた。せいぜい20分ほどしか登っていないのに、やたら下の方にあるように見える。いかに一気登りを強いられてきたかという話である。そして、さすがゴールデンウィークだけのことはあり、周辺道路も含めてかなりの数の車が止まっているのが見て取れる。それ相応の登山者もいるということだが、今度は山中で渋滞が発生するようなことになりはしないか。すでにここまででもその兆候は見えていた。

画像 九重連山の核心部とも言えるこの辺りのエリアだけれど、山と高原地図をはじめとする山域地図を見ていても概念が今一つ掴みづらい。道の分岐はわりと少ないようなので素直なコースと言えそうだが、牧ノ戸峠よりは結構標高が低そうに見える長者原から歩いても、久住山までの所要時間は大して変わらないような表記になっている。歩行距離も目に見えて違いそうには見えないのでなんだか不思議な感じがする。のみならず、めまぐるしく様子が変わっていくこの牧ノ戸峠からのルートにあって、ゴール地点となる久住山らしきピークを未だ比定できていない。心臓破りの坂を登り切ったたりにあった指導標では、牧ノ戸峠までは0.7㎞となっている一方で、久住山までは3.1㎞となっている。この先進むべき道は、緩やかにアップダウンを繰り返している。ついさっきまでのような無茶な登りがなさそうなのは一目瞭然にわかるので、そのあたりは心安いのだけれど、顕著なピークまではまだ結構距離がありそうだし、そのどれもが久住山のようにも見えるし、そうでないようにも思える。この山、写真などで紹介されることもあるのだろうが、特定のどこからか見上げる特徴的な定番の姿というのがないような気がする。周囲の山群にさえぎられて、かなり間近まで近づかないと一目見てそれとわかる久住山単独の姿がとらえづらいという事情もあるのかもしれない。今登山道を歩いていて、そんなことを思う。

画像 いろいろ思うところはあるが、この道を歩いていると、久住山が大した名山であるということはわかる。標高こそさしたるものではないけれど、火山由来の険阻な山容の山が衝立のように立ち並び、そのただ中を突っ切るようにして歩きやすい緩やかな道が伸びていく。さしずめ北アルプスの雲の平などといったところがこんな様子なのだろうと思う。行ったことはないけど。日本アルプス深部の廉価版という捉え方ができるのかもしれない。こんなところに、家族連れのちびっこなどが大勢やってきているが、そういう間口の広さこそ、久住山の愛されるゆえんなのかもしれない。まあ、そんな気やすい山だからか、想像していた以上にきついと弱音を吐きながら登る、さほど山慣れていなさそうな層もしばしば目に付くのだけれど。対する私は、序盤こそ苦戦を強いられたが、以降は全然余裕で歩けている。4月に入ってからこっち、猿投山、御在所岳、三ツ瀬明神山とこなしてきた甲斐も現れているのかもしれない。予定歩行時間で言えば、御在所岳はおろか、三ツ瀬明神よりも短いことになるはずの久住山である。

画像 12時を少し回り、登山道は山峡の平たん地に突入した。最前までは緩やかなアップダウンの稜線歩きの雰囲気だったので、まだずいぶんと雰囲気が変わったものだが、左手にそびえる岩壁は、まるで迫ってくるような存在感があってかっこいい。山と高原地図を見て仕入れた知識によれば、星生山という山らしい。今歩いているところから百数十メートルほど登り詰めたところに位置すると思われる稜線上には、確かに人が歩いている。遠目にはどこから登れるのかさえ見当もつかないような岩壁ではあったけれど、間近に寄ってみれば、確かに取りつく道はあるようだ。十分時間があれば回り道したくなるような山道だったけれど、残念なことに今日は時間がないので、一直線に大将首を目指す心境で、久住山に向かう。というか、持ち時間は1時間を切った状態だが、ここから山頂に立てるのだろうか。回廊状の谷間の向こうにそそり立つ岩山までは、距離がちょっとあるのもさることながら、もう200mほどは登り詰める必要がありそうだ。

 12:21、久住山山頂の直下に建つ避難小屋の前を通過。遠目に山小屋のように見えたそれは、まさに避難小屋以外の何物でもないあばら家風の小屋だった。荒天時とかでもなければ、なかなかここに憩おうと思えるような代物ではなかったが、その眼前はかなり大きな広場になっており、多くの登山者たちが昼食休憩を取っていた。だが、当初の作戦によれば、私に残された時間はあと30分しかない。ここは一気呵成に山頂を目指さなければならない。こんな時、私に闘志を与えてくれる言葉を思い出し、士気を奮い立たせる。行くぞ。極地方など登山家の恥だ。

画像 最期の坂道は、傾斜はさほどに厳しくはないが、だいぶガレた感じの斜面である。これまで歩いてきたところと比べると、道というほど明瞭に整備されている感じではないが、ペンキマークやらトラロープやらがあるので特段道を見失うような箇所でもない。歩き始めから、実のところまだ1時間余りしか経過していないので、体力はたっぷり残されている。限られた時間でまとまった高度の一気登りを強いられる形になったので少しひるむところはあったが、終わってみれば12:41に久住山の頂を踏むことができた。避難小屋のあたりからも視認できたが、多くの人が山頂周辺に集っていた。その眺めは雄大で、全周に九州最高所の山並みが連なっている。わずかに南方向にのみ、盆地に営まれる小さな町の姿が見える。ただ、九州の中でもこのエリアについてはほとんど土地勘がない。あれがどういう町なのかは良くわからず、遠くの山も近くの山も、なんという名前の山なのかよくわからないものが多い。せめて阿蘇山はと思わないでもないが、阿蘇山も九重山と同様、単独のピークを表す名称ではなく、その中でも代表的な数座がどのような立ち姿をしているのか、よくよく考えてみれば知らないのだった。

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 しかしまあ、それはこの際重要ではないか。天気に恵まれ、360度の眺望を満喫できた。それで良いではないか。持ち時間も若干残した状態でゴールすることができたし、昼食とする。昨夕、大阪南港のコンビニで買ったソーセージパン。今日は結構気温が上がっているが、まだ食べても大丈夫だろう。私は、保存料の実力を信じる。そして信じて、ソーセージパンを食べた。ソーセージパンには合わなかったが、アクエリアスでのどを潤し、山頂にあったポケストップを回して、記念にギフトをゲットしようとしたが、残念ながら2~3回回しても何も出なかった。代わりにジムがあれば、ジムバッジをもらって即終了だったのだが。そう言えば、ジムバッジは上限1,000個で古いものから表示できなくなっていく仕様らしく、槍ヶ岳山頂ジムのバッジがリストから消えてしまったのが悔しい。標高3180mまでもう一度バッジを取りに行くのは、なかなか骨が折れそうである。

画像 などとくだらないことを考えていたら、下山の開始が遅れた。山頂を離れたのは13時が間近に迫るタイミングだったけれど、さすが下りは早い。最前の避難小屋までは20分ほどで下ることができた。あまりのんびりとはできないが、この調子なら帰りのバスにも間に合いそうだ。歩調は緩めず、来た道をきびきび進む。そんな中で、ハプニングが起きた。気が付くとどこからかヘリコプターの飛ぶ爆音が聞こえてきた。近場に営業小屋がありそうな様子でもなさそうなので、後はテレビの空撮か、さもなくば遭難者の救助くらいしか考えられなかったのだけれど、ヘリはついに、これから進む道の上空でホバリング体制に入った。どうやらけが人が出たので救助に当たっているらしい。それは良いのだが、作業中はうかつにその作業現場に近づくことができない。別に通行を制止されている風ではなさそうだったけれど、ある程度進むとヘリのプロペラが巻き起こす強風でのせいで進むのが困難になってしまった。体をもって行かれるような突風ではないのだけれど、登山道上の細かい砂が巻き上げられ、風上、つまり進みたい方向に向かって目を開けていられない。やむなく、救助作業が終わってヘリが遠ざかるまでその場で停滞。体感的には10分ほどは待っていたような気がするが、結果、下山もあまり余裕のないものになってしまった。反面、事故の概要は良くわからなかったけれど、どうも下山中に登山道で転倒した人が脚が折れるか頭が割れるかした結果ヘリが飛ぶことになったもののようなので、他人事とは思えない。変に下りを焦るとそれこそ足を取られることにもなりかねない。山での事故は、往々にして下山時に発生するとはよく言ったものだ。

 迅速に、それでも細心の注意を払いながら下りを急ぐ。当たり前と言えば当たり前なのだけれど、今日のような状況だといつも以上に消耗する。幸い、名も知らぬ遭難者の轍を踏むこともなく牧ノ戸峠まで下れたのは、14:17のことだった。バスには余裕で間に合いそうだ。ひとまずは装備替え。それでも時間が余ったので、レストハウスで売っている食べ物を何か買ってみようかと思ったのだが、ここも同じようなことを考えている下山者でなかなかの繁盛ぶりである。最初はソフトクリームでも買って食べようかと思っていたのだが、一緒に貼り出されていた謎のお菓子?「いきなり団子」に心を奪われ、あれこれ思案しているうちに時間が無くなってしまったので、アイスも団子もあきらめてバスに乗り込むことになってしまった。

 ちなみにいきなり団子とは、wikipediaによれば熊本の郷土菓子らしく、「輪切りにしたサツマイモと餡(小豆あん)を餅(ねりもち)、または小麦粉を練って平たく伸ばした生地で包み、蒸した食品。見た目は大福にも似ている。」なのだそうである。くじゅう連山の核心部あるのは一応大分県内ということになるのだが、まあ下山後はすぐに熊本県側に向かうような位置関係ではあるので、それについて細かいことを言うのはよそうと思う。

令和最初の九州旅・その1

 2019年4月30日。つまり平成最後の日。テレビの番組はしきりに「平成が終わるタイミング、あなたはどこで何をしていますか?」というようなメッセージを発していて、ああ一つの時代が終わるのだなあという思いを強くしていた。いくぶんか感傷的な気分になっていたのは間違いないのだけれど、実際そのタイミングを迎えたとき、私はメランコリックな気持ちに浸るも何もなく、眠り呆けていた。翌日から始まる令和最初の九州旅が、例によって早朝出発のものとなるのでやむを得ないところだったのだけれど、つまりはその翌日一日、まともにテレビやネットのニュースを見るでもなく、一日中駆けずり回ることになったので、取りようによっては時代の流れに取り残されていたと言えるのかもしれない。

 今回の旅は、文字通り九州旅行がメインとなる計画の物で、その中でも九重登山と五島行きが核になるものだというのは先に触れた通りだが、そこにあれこれ計画を積み増していった結果、オプションが重くなった。まず、初日は夜までに大阪南港に向かってフェリーに乗れば良いはずの日だったのに、つい出来心で和歌山平定を企ててしまったり、そこからの流れで水間観音駅と和泉中央駅に行こうとしたがために、結局は朝一番に行動を開始する羽目に陥ってしまった。さらに船中泊も含めて3泊4日の旅だったのが、どうしても広島に泊まりたくなってしまったので、さらに後ろに一日延びることになってしまった。その分荷物は増え、その一方で強行日程に拍車がかかるというひどいスケジューリングに陥ってしまったのだが、どうせいつものことだから仕方がないと、雨のためにふいになった令和最初の日の出の様子を報じるテレビ番組を尻目に、家を出た。

 まずは、近鉄で大阪上本町駅に向かう。一時、近鉄の特急アーバンライナーが新幹線と張り合うような広告を打っていた時期があったが、急行を乗り継ぐ。特急にしたって新幹線には太刀打ちのしようもなかったのだけれど、運賃についてはJRよりも近鉄に分があり、名古屋‐大阪と近鉄名古屋‐大阪上本町を比較する際、後者の方が結構割安に済むのである。ちなみに、JRの場合、少ない場合は米原で一回、普通に行っても大垣でもう一回余分に乗り換えが発生する程度で済むところ、近鉄は伊勢中川で最低一回、始発列車だと名張近辺でもう一回余分に乗り換えが発生するのでこれもどっこいどっこいである。所要時間については近鉄の方が30分近く長くなる傾向にあるが、まあ誤差の範囲という気はする。後は、JRの新快速の方が米原から先を景気よく飛ばしてくれるので、気分の問題くらいしか差はないようにも思えるが、今回はいろいろ持ち出しの多い旅となるので、序盤は始末してかかることにした。

 上本町駅から地下鉄で天王寺駅まで移動し、そこから先は結局JRの阪和線で和歌山駅までひた走った。そして和歌山駅より先、和歌山県で最後に残された路線・和歌山電鉄の旅が始まる。以前に少し書いたことがある通り、和歌山駅は構内改札が名物みたくなっている。同じJRの路線でも、和歌山線への出入りに自動改札を通らなければならないのにも閉口したが、今回は別会社の電車に乗ることになるので、当然ここでの改札は避けられない。

画像 和歌山電鉄の名物はネコのたま駅長で、現在はその跡目を襲ったニタマ駅長とよんたま駅長が来客に(無理のない範囲で)愛想を振りまいているのだそうだ。その影響か、電車内には、安易に犬猫を飼うんじゃないというような広告がびっしり貼り出せれていたりもする。ただ、私がここにやって来た目的は彼らに会うことにはなく、主にこの路線の走破にある。窓口では、一定区間以上を往復するなら一日乗車券を買った方がお得とあったので、進められる通りこれを買おうとしたら、今日はニタマ駅長が私の目指す終着駅・貴志駅に出勤していないが良いかと念を押された。いいですとも!

画像 なお、よんたま駅長は道中の伊太祈曽(いだきそ)駅に出仕しているということだが、私の目指すものはそこにはなかった。正確には、伊太祈曽駅を取るとゲーム内報酬をもらえるイベントが開催中なので、それもあって和歌山くんだりまで足を運んでみようかという気になったのだが、システム上伊太祈曽駅で下車する必要がないので、一気に貴志駅まで進み、もぬけの殻となった駅長室を見学した後、とんぼ返りで和歌山駅まで戻った。とにかくこれで、和歌山県内の駅は制覇したことになる。

 ついで、水間観音駅(水間鉄道)、和泉中央駅(泉北高速鉄道)にも行く。これら二つの駅とも、伊太祈曽駅と同様にして駅に足跡さえつければ良い扱いとなっているので、きわめて機械的に駅まで行って帰るだけに終わった。というか、二駅とも以前の同様のイベントの時に、下車して近在の名所なり駅前の様子なりを見ているので、そこから1年程度しか経過していない今日、あえてもう一度同じことをしようという気にはならない。時間もないし雨も降っているしで、踏んだり蹴ったりである。強いて言うなら、泉北高速鉄道の沿線にズムシティみたいな町がったような漠然とした記憶があったので、その車窓風景を撮影することだけは少し楽しみにしていたのだけれど、道中そんな場面は一度もなかった。まさか夢を見ていたわけでもあるまいがと首をかしげていたが、よくよく考えてみれば、あれはそれこそ近鉄長野線沿線の富田林かどこかの風景だったような気がする。

 とにかく、近畿圏内での宿題はこれで片付いた。宿題というか、これは呪いなのかもしれない。観光状態した必然性はなくても、鉄道に乗り、駅に行かなくてはならない呪い。さしずめ今回の旅は、駅の呪いを解く旅なのかもしれない。

画像 時間が半端に余ったので大阪城公園を少し流した後、いよいよコスモフェリーターミナルへ。前回の志布志行きで要領をつかんだつもりでいたのだが、甘かった。志布志航路と別府航路では船自体の新旧の差によるものか、少しばかり乗船のシステムが違うようだったし、何より普通の週末と未曽有の大型連休の差がもろに出た形で、事前の補給用に当てにしていたトレードセンター内のコンビニは、食料品を中心に物資が払底しかけている状態。ケチが付きかけたけれど、前回の戦訓をもとに、南港出航前にレストランに入り(別府航路は出航が遅いという事情もある)、食べ物が豊富にある状態で食事を済ませた。地の物を使ったメニューは志布志に比べて乏しいような気もしたが、気持ち料金も安かったので、良しとしよう。その後、甲板に出て沿岸の駅を集めた。今回は瀬戸内海を進む関係で志布志航路の時よりずっと駅を集めやすかったのだけれど、特に今回回狙っていたのは、神戸市沖合の人工島にあるマリンパーク駅。無事にこれを取ることができ、兵庫県内で残されたのは、姫新線沿線の数駅ほどを数えるのみとなった。

 なお、船室に入ってしまうと電波が届かず、位置情報が取れないのは前回と同様である。加えて今回は、昔ながらの二段ベッドを複数連ねた相部屋形式の部屋に入ることになったのだが、ここに個人用のテレビはなく、さらに具合が悪いことに同室の客は私以外皆家族という状態で、アウェイ感がひどかった。うまくいかないもので、こういう時に限って暇つぶし用の文庫本をもってきていなかったので、後は仕方なくふて寝することになった。

 瀬戸内海は多島海である。海域に浮かぶ大小さまざまの島と、本土の陸地によって海の道が狭められている箇所は多く、そういう場所は多くの船が行き交うとともに潮の流れが複雑になり、往々にして難所となる。さんふらわあ あいぼりは、約12時間をかけて大阪から別府までを移動する。他の航路や交通手段のことを考えると、明らかに時間がかかりすぎている感は否めないが、、法令により航行箇所が規定されている上に、ところによりせいぜい時速25㎞程度しか出せないような制限が設けられている影響が大きそうだ。そんな事情もありつつ、翌朝目が覚めると、船は別府湾の湾口付近にいた。もちろん正確な位置などわからないのだが、最寄の駅は日豊本線の幸崎駅と判定され、確かに海の向こうに山並みが見える。

 さんふらわあ あいぼりの朝はせわしない。何しろ別府観光港への着岸は7時前だ。レストランも朝食営業を行ってはいるが、5時台から営業を開始するスタートの早さだ。目覚めて、今日の準備をしているうちに、気が付けば港についていた。

 今日は、何をおいても九重山を目指すことになる。そのためには速やかに九重方面行の路線バスに乗り込む必要があったが、フェリーターミナルの前で待っている路線バスに乗り、同じく九重行きが出る別府駅に向かおうとすると、接続が非常に厳しいことになりそうだというのはわかっていたので、バスの並びで待っていたタクシーを捕まえて駅に向かった。タクシー・ドライバー苦労人と見えて、私の寝ぼけ顔見て見ぬふり。天気予報では今日一日晴れる話とゴールデンウィーク中の混雑の話ばかり。

 別府駅前に着くと、以前に見覚えのある銅像が、サッカーか何かのユニフォームを着ていた。なんだろうと思って近づいてみたら、銅像よりも台座の方に目が行った。「旅人をねんごろにせよ」と銘文が刻まれていた。この銅像のモデル、油屋熊八の座右の銘らしく、もともとは聖書の言葉らしいが、旅人である私はありがたくねんごろにしてもらおうではないか。熊八は、別府の観光開発の立役者で、亀の井ホテルの創業者、そして別府地域観光の重要な足であり、今日も当てにすることになる亀の井バスの創業者でもあるのだった。

つづく

山登ってみよう【縦走東海自然歩道・蔵田~寺島】

 東海自然歩道の旅は、昨年の9月に静岡県の家山から蔵田までを歩いて以来、ご無沙汰である。昨年中の成果と言えば、一応西の果て箕面の森へのゴールを果たしているので、トータルで見れば何となく形になっている風ではあるが、残る東への旅の進捗がはかばかしくない。こちら方面への遠征は、旅費が高くつく上手間もかかるので、過度に慎重になっているかもしれない。しかし、山奥だが標高のない地域を歩く区間が長い静岡県コースは、盛夏の歩行にも真冬の歩行にも今一つなじまないので、春や秋が稼ぎ時となるし、5月というシーズンは昼も長いので、長時間ハイクに都合が良いのは間違いない。ロングトレイルの旅中盤戦最強と目される敵の姿が見えてきたことも踏まえ、そろそろ出撃の頃合いということになるのかもしれない。最強の敵の名は油山峠。通行止めかそれに準じる扱いになっていないのが不思議なほど、コースの保守状況は劣悪だという。

 今回は、そんな油山峠に至る露払いとして、前回のゴール地点・蔵田から、くだんの峠を射程距離圏内にとらえる寺島までを歩くことにする。総歩行距離は20㎞程度、中盤までは舗装された県道歩きが続くので、ハイキングコースとしては面白みに欠け、邪道のそしりを免れなさそうな道のりではあるけれど、道迷いの心配が少なく、進捗も予想しやすいので、まあとっつきやすいコースということにはなるだろう。一応最後には、比高300m級の低山を乗り越えてゴールとなる。ガイド本のコースタイムは、約5時間。ただし、これは東京方から大阪に向かって歩く場合の時間で、逆に歩くとどの程度となるかが書かれていない。参考タイム程度のものと心得るべきか。頻繁に出撃を繰り返していた頃ならば楽な部類に入るコースだったろうが、ここしばらくこういったベタ歩きの山道から離れていたので、どういう結末を迎えるのか、何となく自信のないところもある。

画像 名古屋駅始発の新幹線ひかりに乗り、まずは浜松駅まで向かう。こういうところにも、西を攻めていた時期には感じなかった厄介さが潜んでいる。西行きコースのクライマックスを歩いていた時は、ひょいとのぞみに飛び乗って京都駅まで移動し、その先は在来線主要駅からダイレクトに、あるいはバス一本程度でスタート地点まで移動し、玄関を出てから2時間とかからずに歩行を開始していたのだが、静岡県コースに入ってからこっち、そんなに遠くはないはずなのに、その日その日の出発地点までの移動が手間になっている。今回は、浜松駅から東海道本線に乗り換え、藤枝駅で下車。そこで20分ほど待って藤枝市の自主運行バスに乗り込み、さらにいつぞや見た温泉保養施設・ゆらくでバスを乗り換え。藤枝の山奥にある蔵田集落にたどり着いたのは、午前9時半のことだった。ワンデイハイクのスタート時間としては良い頃合いのようにも見えるが、家を出てからは実に4時間が経過しているし、この便に遅れると、次にここまでやって来られるのは何時のことになるのかわからない。

画像 前回の歩行は、霧の中でゴールを迎えたので、蔵田周辺には、深山幽谷風の浮世離れした雰囲気を感じたのだが、今日は快晴のため、まるで印象が違って見える。初夏の日差しの中、新しい一日のスタートを切った蔵田集落は、長閑な、ある意味どこにでもありそうな山村の顔を見せていた。そんな中を、9:33にスタート。この先、十数㎞先にある静岡市久能尾地区までは県道32号に沿って歩くことになる。実はその導入部分を下見しようとしてGoogleストリートビューを覗いていたら、頼みの綱の県道の入口に、豪雨による路肩崩壊のため通行を禁止する意味のバリケードが設置されているのを見つけたので、今日の旅に一抹の不安を感じていたのだが、幸い現地にはそんなものはなかった。まあ、ストリートビューの情報も7年ほど前の古いものだったし、それ以外に通行止めの情報はどこにも出ていなかったのでまず大丈夫だろうとは思っていたのだけれど、Googleをしてその程度には情報の更新を後回しにするくらい、辺鄙な地域なのだろう。ちなみに、本日のコースで数少ない見どころとして、ごく序盤に宇嶺(うとうげ)の滝というのがあるのだけれど、県道を外れてこれを見に行く散策路の復旧は終わっていないらしく、途中までしか歩けない旨が広報されていたりする。

 さて、この区間の東海自然歩道こと県道32号藤枝黒俣線は、一応県道とは言いながらも普通自動車一台分が走れる程度の道幅しかない。なので、車で滝見物に来た人たちに対しても、蔵田地区の中心付近にある駐車場に車を止め、歩いて滝を見に行くことが推奨されているほどだ。要するに、静岡の旅でどれだけ歩いたか知れない林道歩きと大差ない道が続く。掛け値なしに自然とは言い難いのはこれまで通りだけれど、人工物らしい人工物は足元の舗装や土止め、ガードレールの類しかなく、それ以外は樹林が道の両側から頭上にかけてを覆っている。その隙間からは、近くの山並みと遠くの山並みが見える。ガチ山歩きではないけれど、東海自然リハビリ用のコースとしては、そんなに悪くないのかもしれない。

 一方で今日のコース、繰り返しになるが見どころが乏しい。宇嶺の滝以降、見どころはおろかチェックポイントにすら事欠きそうだ。これまで歩いてきたコースは、わかりやすい景勝地こそ限られるにせよ、道中にちょっとした集落位はあったものだが、どうも今日はそれすらなさそうだ。途中の清笹峠で静岡市内に入った後は、特にめぼしいものもなく久能尾に下り、さらに山越えて寺島に至るという感じになりそうである。静岡県サイドとしては見どころとして茶畑の風景をしきりに押してくるのだけれど、茶畑は静岡県内に突入してからひっきりなしに目にしているので、いささか食傷気味である。静岡県の想定する東海自然歩だーは、通しで歩き浮きぬけようという層ではなく、個別のセクションを1回限りで歩こうとする一見さんなのかもしれない。

 ということで、宇嶺の滝入口にあった指導標とコースガイドの看板を見る。ここから清笹峠までは2.1㎞170分、久能尾までは14.6㎞300分とある。峠までの距離表記が短すぎる気がするし、比較的素直に伸びる車道を歩くことになるので、所要時間そんなにはかからないだろう。峠まで2時間、そこから久能尾までさらに2時間、久能尾から寺島まで2時間見ておけば十分だろうか。今日は、油山峠までの距離を詰める意味合いが強いので、楽しんで歩くというよりは淡々と間合いを削るつもり出来ている。早々に片づければ家までの帰り道が安価で楽になるし、コースタイムに関わらず、てきぱき歩こうではないか。

 まずはせせらぎを聞きながら進む。車道規格ながら、アブやらもっと小さな羽虫やら、虫が多い。当初は道のかなり下の方を川が流れていたのだけれど、滝をやり過ごしたこともあってか、いつの間にか瀬音がごく近くまで迫っていた。ちなみにこの辺り、静岡県内有数の名ハイキングコースがあるというわけではなさそうだが、ちょっとした散策路程度は道沿いに散在しているらしく、それらしき脇道とともに「守ろう自然の緑 社会のマナー」などと書かれた看板が立っていたりする。また、初見でこの区間には集落がないという印象を持ったのだけれど、実際には道から少し離れたところに数軒の民家が立ち並んでいる箇所はあった。県道沿いには廃屋があるだけだ。地名はわからない。

画像 11:14、清笹峠を通過。ここから先は静岡市である。藤枝市区間は足踏みしていた時間が長かったのだけれど、歩いていたのは前回後半と今回前半のみなので、そんなに長い付き合いではない。この先、静岡市内(と言っても山奥だが)を歩く時間は、それなりに長いと思われる。二度、三度と本格的な山登りもある。それをクリアしたあたりでいよいよ山梨県に入ることになる。何となく居住まいを正すような気持で、なおも先を目指す。ここまで、想定よりもいくらか早いペースで歩いている。この先のコースを確認するとともに、寺島からの離脱に使うバスのタイミングを頭に入れる。14:21の新静岡駅行バスがある。これに間に合わせることができれば、都合が良さそうだ。万が一これを逃したとしても、2㎞ほど離れた国道沿いにある八幡バス停まで移動すれば本数があるため、帰宅にとって大きな支障はないのだけれど、ここから3時間でのゴールを目指してみよう。というわけで、行動食ではないけれど、久能尾に向かって下り始めた山道を、昼食代わりのメロンパンをかじりながら歩く。そんな行儀の悪いことをしていたのがまずかったのか、なんか胃の腑のあたりがチクチクと痛くなってきたが、それでも今日を歩ききることはできるのだろう。

画像 40分ほど歩いて黒俣の集落に到着。低平地にあった蔵田などとは違って、緩斜面の道路沿いに営まれる集落である。ここに黒俣の大イチョウと呼ばれるイチョウの大木があった。静岡県の天然記念物か何かになっているようだ。時期が時期なので葉っぱは真緑。なんだかインパクトが弱いけれど、紅葉シーズンになればそれなりに遠来の客もあるのだろうか。「大イチョウマイクロUターン所」などと書かれた手作りの看板が掲げられていたりしたし、県道沿いには民宿営業をしているっぽい家もあった。観光的にはほとんど顧みられない地域と思っていたが、意外に部外者の訪れがあるのかもしれない。「静岡市 自転車の駅」と書かれたのぼりを掲げる喫茶店なんかもあったりする。そして実際今日のコース、意外と多くのサイクラーが行き交っている。

画像 12:37、久能尾到着。普通の山間集落…とちょっと勝手が違うのは、商店があるのに加えてガソリンスタンドがあることで、ことに後者が異彩を放っている。もともとこの地域の中核をなす集落だったのかもしれない、それに加えて国道362号の交差点ということもあってスタンドがあるのだろう。ちなみに362号は山間部を経巡り、愛知県まで続いている。実は東海自然歩道とも春野町付近で一度交差している腐れ縁みたいな道である。なんにせよ、東海自然歩道の旅人にとって重要なのは、店があるという一点に尽きるだろう。そこで何が売られているかまでは偵察しなかったが、たばこの看板が出ていて、昔ながらのいわゆる日用雑貨を売る個人商店のようである。軽食や飲料程度なら売っていそうだ。というか、そもそも店先に数台の自販機が置かれているので、飲料の入手はよほどのことがない限りここで問題なく済ませられる。一応昼時なので、缶コーヒーを買って一服。

画像 ここまで、坂道の登り下りはあったものの、ひたすら車道歩きだった。今日は最後に、ここから地道の峠越えに挑むことになる。だらだら歩いてきた後の山登りは、何となく気持ちが倦むが仕方がない。ほんの一瞬、国道を静岡市街方向に向かって歩き、民家と民家の隙間に延びる道へと入る。指導標がなければ絶対にここがルートだと分からないような、実に影の薄い道だ。コンクリート打ちの階段が山に向かって設置されていて、一応はこれから山道が始まることがわかる程度である。この区間、どうも序盤のうちは里人の生活の道となっているようで、土の道が始まって少し行くと、墓地に行き着いた。久能尾の家並みを見下ろす立地で、古くから山村を見守ってきた歴史のありそうな墓地だ。ただ、集落からの距離こそ大したものではないが、なかなかの急登が続いた先にあるので、住民の高齢化が進むと、いずれはこうした墓地の維持もままならなくなりそうではある。墓に限ったことではないかもしれない。静岡県コース沿いには、山奥ながら民家も少なからずあるが、そのいずれにも若い家族や子供が暮らしていそうな気配は希薄で、次第に先細っていく未来を想像してしまうのが寂しい。

 しつこいようだが、東海自然歩道の静岡県コースは、比較的著名な山の既存ハイキングコースを流用した区間と、それらを林道などでつなぎ合わせて成立する傾向が顕著なのだけれど、そのいずれにも当てはまらない、こういう名もなき山道といった風情の道を歩くのはわりと久しぶりのような気がする。たぶん、それこそ春野の裏山犬居城辺りを歩いて以来のことなのではないか。だからと言って今歩いている道が純粋に東海自然歩道として新規に整備されたものかと言われればそうでもなさそうだ。たぶん、古くからの里道を再利用している。道沿いにはたけのこ堀りの跡みたいなのもあって、変な生活感がある。

 薄い踏み跡を20分ほど登っていくと、やがて傾斜が緩み、またしても茶畑に出た。茶畑の先は下り坂になっている。くだんの茶畑からは寺島方向に向かってモノレールが伸びていたので、たぶん寺島側の人が作っている畑なのだろう。この区間は、寺島住人の山仕事の道と、久能尾住人の墓参の道との間をつないで一本の道とした感じなのかもしれない。

 無論、それ以外にも山仕事でこの道を行く人も多少はいそうな感じで、そのために東海自然歩道と紛らわしい枝道がところどころに存在していたりする。特にややこしいのが寺島に下る道で、道が消えかけているようなところもいくらかあって、本当にこのまま歩いて行っても大丈夫なのかと、何度か立ち止まったりしたほどだった。最後は、樹林の向こうの山麓に家々の屋根が見えてきたので、ルートを外すことがあっても進退窮まることはないだろうと腹をくくって歩いた。結果的に、見慣れた東海自然歩道の指導標に行き着いたので、道を間違えたわけではなさそうだった。

画像 吊り橋を通って藁科川を渡る。川に面した斜面を登り切ったところは再び県道になっていて、目の前には寺島下のバス停があった。別にここを今日のゴールとしても問題はないのだが、片側一車線の道路の狭い路肩で窮屈そうにしているバス停標識を見ていると、ここでバスを待つのもあんまり気が進まない感じはする。今しばらく、この県道を遡行し、やはり当初からゴール地点にしようと考えていた寺島バス停まで歩くことにした。時にこの県道、路線名を南アルプス公園線という。ずっと進んでいけば、南アルプス深南部の登山基地として知られるらしい畑薙湖まで続いている。いかんせん、路線バスはそこまで走っていないので、私がこの道をそういう目的で使うことはなさそうなのだけれど、胸に去来する思いはある。

画像 ちょっとした広場状になっている寺島バス停付近でバスを待つ。時刻は14:01。バスがやってくるまでは20分ほどの時間がある。終盤焦るのでもなく、時間を持て余すでもなく、わりときれいにはまってくれた。喉が渇いてきたので何か冷たい飲み物が欲しいところだが、付近に自販機や商店はなかった。ネット上の古い情報だと自販機があるということになっていたのだけれど、そのあたりの状況は、刻々と変化していると見える。おそらくは自販機があったと思われる沿道民家の空地は、たぶんバス待ちの客に供されるものと思われるベンチが置かれていた。

 久しぶりの東海自然歩道歩行だった。不思議なもので、だらだらとした登りくだりを繰り返しながら20㎞余りの道のりを行く歩き旅というのは、大きな山に挑むのとは違った消耗の仕方をする。今日のようなコースに限っては、硬い舗装の上を長時間歩く影響が大きいのだとは思うが、とにかく東海自然歩道旅としてはさして長くもないものだったわりには疲れたというのが正直なところだ。次回の歩行は、この直後に控える大山を登って下り、さらにそれに続く油山峠に挑むことになる。油山峠の後は、静岡県コース最高所である竜爪山が控える。厄介物の峠を乗り切ってから、さらにタフな山を登る展開は避けたいので、次回はどうしても大山登山の余力で油山峠を越えたい。東海自然力はかつてと比べて陰りが見えた感じはするが、日照時間が長く、気候もほどほどで済むこれから1か月ほどの間に、悪路油山峠との決着を期す必要性を感じる。

 間もなく、バスがやって来た。ここから静岡駅までは乗り換えなしで50分ほどの道のりである。次回に向けて爪を継ぐ思いで、バスに揺られたが、その時の私は、前途に控える難問の存在を想像だにしていなかった。

夏も近づく御在所岳

 平成最後の九州旅行からはや2か月。このゴールデンウィークには令和最初の九州旅行に行く予定である。今度の旅行で軸となるのは二つ。九重山登山と五島の福江城攻めだ。後者は、さほど問題となるところではない。城があるのは離島だけれど、城自体は近世の平城なので、天候が大荒れで渡海そのものが不能とならない限りは実質は普通の観光である。ちょっと気になるのが、くじゅうの方で、目指すのはそれほど手ごわい山ではないはずだが、万全を期すために体を慣らそうと、先週は猿投山、今週は御在所岳と、近場の山に登ることにしたのだった。

画像 これまでそんなに注目することはなかったのだけれど、御在所岳は大した山だと思う。名古屋からだと電車でのアクセスが容易なのに加え、名古屋駅から登山口近くまで直通の高速バスが走っている。山麓に湯の山温泉という温泉地があるのにも助けられる形ではあるけれど、とにかくとっつきやすい。いざ登り始めると、急登が続くのでタフな山ということにはなるのかもしれないが、さほど長丁場を強いられるわけではないので、これまた普段山に登らない人がちょっと格上の山に安全に挑んでみようという時に手ごろと言えば手ごろである。また、タフな道とそうでもない道を選択できるコースバリエーションもあり、登頂までで予想外に消耗してしまった場合にはロープウェイ下山という手段も選び得る心強さがある。それでもまあ、過去安易にこの山に登って遭難しかけた挙句、救助にやって来た警官へのお門違いな苦情をSNSで開陳してしまったために大炎上した人もいるにはいたので、細心の注意とともに登る必要はあるのだけれど。

 今回は、御在所の登山道の中では定番中の定番とも言える中道コースを行った。直近の御在所では、真夏の時期に一ノ谷新道を登って、酷暑の余り死にそうになったのだが、その時には豪雨の被害で中道が使えなかったものと記憶している。奇岩が連続し、キレットと呼ばれる険しい岩場もあるので中級者向けコースには位置付けられているようだが、ダイナミックなコースは歩いていて飽きが来ないし、展望にも変化があって名コースとするにいささかの迷いもない。四日市の街並みやその向こうの伊勢湾が見えるのは当然知っていたけれど、まだ空気が澄んでいる春先のこの時期であれば、御嶽や南アルプス(だと思う)の山まで遠望できるとは、思いもしなかった。前日は職場の飲み会で、起き抜けはあまり気分がさえなかったが、快晴の天気予報に一念発起してやって来た甲斐はあった。

画像 御在所岳の山頂付近は、観光地化されている。一説に御在所岳は、背が低いながらも百名山の候補に挙がっていたのだそうだが、山頂が俗化されているので選外にされた経緯があるとも聞いている。その深田久弥氏の感性はもちろんわかるのだけれど、その景観も、意外とハードな山行の終わりに絶妙の弛緩を与えてくれていると言えなくもない気がする。

 そんな御在所の山頂で、今年の山の方針を整理する。間近に迫った九重は別として、今年のメインイベントとするビッグマウンテンとしては、ついに奥穂高を選びたい。その前哨戦に笠ヶ岳、締めくくりの秋に昨年は断念した八ヶ岳(赤岳)を選ぶことにする。奥穂はもちろん、笠ヶ岳も体力勝負の山となるそうなので、再度山登りを習慣づけたいと思う。その習慣づくりの山としては。伊吹山、池田山、位山、福地山、京都一周トレイル京北コース、六甲山、東海自然歩道(蔵田~久能尾、久能尾~油山温泉)といったところをチョイスしたい。漠然と選んだが、これでも8コースある。天候の都合なども考慮すれば、これらを消化していくうちに夏山シーズンに突入するはずだし、それでも持ち時間ができるなら、また三河の山にでも足を延ばせばよいのだと思う。

画像 半ば思い付きのような御在所岳登山ではあったけれど、何となく得るものはあったような気がする。満ち足りた気分になり、帰りはロープウェイで下山した。登山は自分の足で下ってこそという信念を持つ人たちも少なくないようだが、往路で登ってきたコースを俯瞰し、キレットに至っては横からその全体像を遠望できるのが、この御在所ロープウェイの面白いところだと思う。ロープウェイを降りると、ほとんど目の前のような位置にバス停がある。数年前までのバス停とは明らかに場所が変わっている。前の物は、湯の山温泉の温泉街の入口辺りに位置していたが、このバス停うからだと、御在所登山は便利だが温泉へのアプローチが迂遠になってくる。その辺は大丈夫なのだろうかと、鬼怒川温泉張りの廃墟ホテルの建物を通目に見ながら、少しだけ気になった。

城崎にて

画像 青春18きっぷの残り2回の使い道を考えていた時、例のゲームが城崎イベントを開催するという情報が舞い込んできた。ゲーム内報酬がもらえるのに加え、城崎温泉駅近くの観光案内所か何かに行くと、特性タオルがもらえるのだそうだ。ちなみに、タオルにあしらわれているイラストはなぜか鉄道むすめらしいので、どうも一貫性のないイベントのように思えなくもないが、別にタオルはさほどほしいわけでもないのでそこはどうでも良かった。ただ、イベントの舞台が城崎というだけで充分である。何度も伊豆に足を運ばせたり、いまいちなじみの薄い足柄エリアに誘導したりするのではなく、こういう王道観光地でイベントをやってくれれば良いのだ。京都とか、良いよね(ただし、地下鉄を除く)。

 しかし、一つ悩ましい問題がある。山陰本線に属する駅のうち福知山くらいまでは鈍行を乗り継いでも比較的容易にたどり着くことができるが、城崎温泉までは結構乗り継ぎに難があることを、私は経験的に知っている。いろいろ考えた結果、京都までは新幹線を使い、京都からは普通列車に乗り換える方針を採用した。まったく、18きっぷ旅にあるまじき堕落ではあるけれど、せっかく城崎まで行くのだから、観光して、地の物を食って、温泉に浸かるくらいはしたい。そんなことを考えていた。

画像 というわけで、城崎温泉駅に到着したのが11時半過ぎ。新幹線と特急を乗り継げばもっと全然早くつくことができるのだが、18きっぷ利用を織り込むとこんな時間の到着となる。考えようによっては昼飯時よりちょっと早くに駅に着けるのでちょうど良いということもできた。ただ、運の悪いことにこの日は、朝から腹の調子が良くなかった。城崎温泉駅近くの通りには、海鮮や但馬牛、出石そばを食べさせる店など、それなりにバラエティに富んだ店が立ち並んでいる。狙いは海鮮だったのだが、そのあまりの観光地お値段ぶりにも慄き、結局は昼を抜くことにした。普通の喫茶店もあったので、単に高いのを敬遠するだけならやりようはあったのだが、お腹が緩いのだけは良くなかった。

画像 しかしまあ、花より団子というのなら逆もまた真なりということがあるのかもしれない。ちょうどこの時は、桜が満開の盛り。どうもテレビのニュースなどを聞いている限りだと、その前1週間あたりから桜の花は日本各地で咲き誇っており、むしろこの週末まで花を散らさずに持ちこたえたのは幸運とも言えるような状況らしかったのだが、桜がそんなことになっているとも知らずにいたことを知り愕然とする。4月第1週は、珍しく仕事ばかりしていた、灰色の一週間だったということになる。そのことからは極力目をそらしながら、何となく満ち足りた気分で、情緒ある城崎の町を流していたのだが、不意に差し込むような腹の痛みに襲われた。非常に危機的な状況と戦いながらトイレを探していたら、外湯の一つ御所の湯の外部に公衆トイレがあったので事なきを得た。

画像 これは何かの導きなのかもしれない。もともと、狙いの外湯はまんだら湯だったのだけれど、現地に行ってみたら午後三時開湯という妙な営業時間となっていたので、これにフラれた直後のことだった。ならばここは御所の湯に入るべきところだろう。なんだか、無性にお腹を温めたくなってきた矢先でもあった。城崎の外湯の中では高い方の料金設定グループに属する800円を支払い、入湯。実は外湯巡り券を買えば1200円で入り放題なので、2カ所以上狙うならそちらの方がコストパフォーマンスが良いのだが、それほどの時間はなさそうだったので一点豪華に徹することにした。鎌倉時代に後堀河天皇の姉に当たる安嘉門院が入湯したことがあったので御所の湯というらしいのだが、御所の名に恥じず、建物も浴場も立派な施設だった。やや熱めの湯に浸かり、蕩ける。これでお腹の具合も上向くというものだ。

 その後は、城崎文芸館に足を延ばした。ここは、以前にこの温泉地にやって来た時に行きそびれた因縁のある場所で、志賀直哉が「城の崎にて」という作品を残したゆかりで開設されたものだということだ。志賀は、山手線にはねられたのだけれど、城崎の湯に浸かったら奇跡的に本復したというから、城崎の湯は電車傷に効くのかもしれないし、そういう意味でも殺伐とした駅モチーフのゲームのイベントが開かれる地として、城崎は好適だったのかもしれない。ちなみに、この間の太宰治同様、私は「城の崎にて」を読んだことがない。生きた時代は大分違うのだけれど、太宰治の「人間失格」、島崎藤村の「夜明け前」、そして「城の崎にて」といったあたりは一度くらいは読んでみるべきなのかなと思わないでもない。なお、文芸館の展示内容自体は、濃密に志賀直哉感を漂わせるものではなく、どちらかというとライトに、志賀直哉作品の背景や、同時代の作家、文学作品を俯瞰するような趣向の物だった。当地に逗留している時に、気軽な気持ちで足を運ぶくらいでちょうど良いのかもしれない。

 その後、鳥取に抜け、智頭急行を経由して上郡まで南下した後、岡山へ移動。城崎行きが確定する以前、姫新線をはじめ岡山の難物を片付けるつもりでいたことの名残だった。同日から翌日にかけて、おかでん、宇野線、加古川線、福知山線を片付けたが、桃太郎線や因美線といった厄介物が積み残される結果になったので、まだまだ岡山制覇への道のりは遠そうである。

8年目の春に・その8

 もともとの予定だと、この旅の最終日は秋田内陸鉄道を走破したのち、盛岡まで抜け、IGRいわて銀河鉄道と青い森鉄道で八戸まで進んだあと、東北新幹線と東海道新幹線を乗り継いで帰る計画となっていた。これで初日にわずかの取り残しがあった青森県をコンプリート出来るし、二日目に大館からレーダーを撃ったのも、奥羽本線鷹巣駅から秋田内陸鉄道に進む方針を決定した上で、取りこぼしとなる鷹巣‐大館間を繋ぐ意図があった。が、男鹿駅でのニュースを受けて情報を収集した結果、どうも最終日は仙台方面が春の嵐に見舞われることになりそうだった。しかもそれは、進行方向となる関東方向から北に駆け上がってくるのだという。当初の計画は、列車の運休など、トラブルに見舞われる可能性が高い。悩んだ結果、当初の計画を捨てることにした。

 考えられる経路はいくつかある。簡略化された路線図が手元になく、東北地方の路線網にも疎いため、概略を思い描くだけの物ではあるのだけれど、まずは秋田内陸鉄道を取った後、あるいは最初から内陸鉄道を捨てて、山形に回る方針。内陸鉄道を捨てたとしても、前回取りこぼした秋田県内の微妙な廃駅をレーダーで回収できるという利点はある。が、山形新幹線に進むと、結局は福島に入ったところで荒天に巻き込まれてしまう可能性がある。となると、新潟から上越新幹線で東京に抜けるルートか、さらに安全策を取るなら上越新幹線から北陸新幹線に乗り換え、長野から特急で帰るというルートも考えられる。で、内陸鉄道を取るなり奥羽本線を山形まで抜けた後から新潟に進めれば万々歳だったのだが、さすがにこれは無理があると分かり、羽越本線を新潟に向かうことにした。さりとて、内陸鉄道に変わる何かが欲しいという思いは偽れなかったので、最後には由利高原鉄道に寄り道していくという方針に落ち着いた。

画像 昨日の夜までその存在すらほとんど意識したことがなかった由利高原鉄道は、旧国鉄矢島線を継承した三セク線というようなことがwikipediaに書かれていた。有する路線は鳥海山ろく線の一本きりで、名前から察するにこれもまた憧れの山の一つである鳥海山へのアクセスルートであるようにも思える。その割にほとんどノーマークだったのは、これまで鳥海山へのアクセスルートとしては専ら酒田市側からの物ばかりを考えていたことによる。由利高原鉄道は、秋田県の南北ちょうど真ん中あたりの日本海側、由利本荘市の羽後本荘駅から始まって、内陸側に進んでいく。ここも盲腸線なので、沿線に用がない限りは乗ることのなさそうな路線ではある。その点では、ここに来る機会を得られたのは怪我の功名ということになるのかもしれない。秋田内陸鉄道では、阿仁マタギ駅近くにあるマタギ資料館に行ってみたいとは思っている。マイナースポットだが、そういう場所がある以上は、いずれまた足を運ぶことになるのだろう。

画像 由利高原鉄道にもう一度来ることはあるのだろうか。沿線にこれといった見どころもない水田地帯が続いているのを眺めながら思う。乗客は地元の高校生などが中心である。乗った列車はひな祭り仕様の観光列車で、整理券発券機には由利高原鉄道のマスコットキャラクターである秋田おばこが「えぐ乗ってけだな~」と愛嬌を振りまいていることから、観光利用の拡大にも結構力を入れていそうな雰囲気の路線ではあるのだが。そして今日も、終点の矢島駅までは進まず、道中の前郷駅で折り返す。後から無理やり突っ込んだ計画であるだけに、時間の都合上やむを得ないところなのだが、なんだか無粋という気はしないでもない。

 この路線は、有人駅がほとんどないことが特徴とも言える。どうも始発の羽後本荘駅、終着の矢島駅、そしてここ前郷駅くらいしか人がいなさそうである。折り返しの乗り換え時間のことを考えると、一つ前の曲沢駅の方が都合が良さそうではあったのだが、曲沢駅に至っては水田の真ん中にホームがあるだけの駅らしいことを調べ当て、漠然とした不安を覚えて敬遠したのだった。その結果、大館リターン張りの強引な乗り換えを決めることになったのだが、いかにも不審な挙動を見せる乗客の存在を前にしても前郷駅の職員は鷹揚だった。もちろん、羽後本性駅で往復切符は買っていたのでキセルの類ではないのだけれど。ちなみに、昨日の津軽鉄道も、この由利高原鉄道も、厚紙みたいな材質のきっぷを使っていた。専門用語では「硬券」と呼ばれるらしく、マニアに珍重されているらしい。
 羽後本荘駅に戻った後、しばし待つ。ここから先は、特急に乗り換える。その名もいなほ号というらしい。私の普段の行動範囲からして、スーパーいなばは聞くことがあるのだが、稲穂とはまた米どころらしいネーミングだと思う。

画像 いなほは、秋田駅と新潟駅を結んで走る。日本海側の有力二都市なので、そこを結ぶ路線羽越本線を走る列車は多そうに感じられるのだけれど、特急を除くと列車本数は多くなく、18きっぷの旅で新潟から秋田まで移動しようとすると一苦労することになる。今回は時間的な制約もあるので、おとなしく特急を使うことにするが、実は問題が一つ。羽越本線は厳密に言うと新潟駅と秋田駅を結ぶものではなく、鉄道がらみ以外ではさほど聞くことのない新津駅と秋田駅を結んでいる。新潟‐秋田を最短で結ぶ特急いなほは、新発田駅を通過した後、内陸側に引っ込んだ新津駅は経由せず、海側の白新線を通る。つまりいなほに通しで乗っても羽越本線をコンプリート出来ないことを意味するので、ここはまたレーダーで解決。ただ、このレーダーで取った5駅ばかりの区間を、実際列車に揺られて通ったことがあるかというとかなり怪しい。過去の旅行で、魚沼→新潟→会津若松と移動したことはあるのだが、その時の旅の記録を見る限り、明確に白新線を利用したことが記録されている。この区間に肉薄する数少ないチャンスだったと思われる旅がこの調子だと、恐らくそれ以外に新津‐新発田間を通過したことはないように思う。

 いなほは、定刻通りに新潟駅に到着した。列車を降りると、目の前に新幹線への乗り換え改札口があった。その展開の速さに、たじろぐ。実をいうと、今日は八戸か、場合によっては仙台辺りで職場用のお土産を買うつもりでいたのだけれど、それが流れたとなると、代わりになるのは新潟駅くらいしかないかと思っていた。在来線のホームから新幹線のホームへダイレクトに移動すると、そこは東海道新幹線のような簡単なりにおみやげを売っているような売店もなく、実用本位のシンプルなだけのホームが待っていた。やがてやってきた列車に乗り込むと、お土産問題に頭を悩ませ始めた私の目の前には大きな窓があった。ただ、上越新幹線と東海道新幹線は、こんなところも違うのだなあと思った。

8年目の春に・その7

 11:09、五能線の旅本編が始まった。すでに触れた通り、途中で乗り継ぎ待ちのために2時間近い待ちが生じるのも併せて、この路線の終着である東能代駅に着くのは16:19のこととなる。何百kmと移動するわけでもないのに全線走破に一日仕事に近い時間を取られるのは、知ってる限りでは飯田線に近いものがあるのだけれど、飯田線ほど駅間距離が短く駅数が多いわけでもないのに長時間を要するのは、五能線の恐るべきところなのだろう。

画像 五所川原の駅を出、市街地を抜けると車窓から見えるのは一面の田畑ばかりとなる。しばらく走って、しばしばその名を耳にする鯵ヶ沢駅まで進むと、周囲の様子は少し変わってくる。いったいなぜ鯵ヶ沢の名が全国区のニュースなどで取り上げられるのかはよくわからないが、列車の窓から見える限りだと、この辺りではかなり都会的な部類に入るのかなという印象である。鯵ヶ沢駅の少し手前からすでに海は見えていたのだが、この駅を過ぎると、本格的に海岸区間が始まる。同じ海沿い区間と言っても、一昨日に走った三陸沿岸とはやはり大分風景が異なる。そもそも三陸の海に近いところは巨大な防潮堤で海が見えないというような有様となっていたが、ここ五能線沿線は、海が近いところだと本当に波打ち際みたいなところを走るようになっていることがある。さすがに波打ち際は言いすぎだとしても、高潮の時や冬場の波が荒い時などは、列車が波をかぶりそうに思えるところもあるし、普段でもかなり濃い潮風にさらされて、鉄道にとっては少なからず過酷な環境なのかもしれない。今は、長閑さを感じさせる春の海である。一方、震災以降、日本各地で盛んにその脅威が語られるようになった津波に対するノーガードぶりは、ついこの間三陸を目の当たりにした身には違和感を覚える。実際のところ、その脅威とまったく無縁ということはないのだろうが、蓋然性の差で、三陸ほど差し迫った津波被害の危険がないのだろうとは思う。

 海より山派の私ではあるけれど、鉄道から眺める景観としてはやはり海の方が様になるのかもしれない。山を間近に見ると言うと山壁というか岩壁を間近に見る狭隘区間となりがちだし、大糸線の安曇野区間みたいなのは悪くはないが、やはり少し離れた平地から山を見る感じになるので、どっぷり山に没入するというわけにはいかない。山と言えば8j、中央アルプス宝剣岳にあるのと同じ、千畳敷の名を持つ磯が道中にあり、そのままの名前の千畳敷駅もあった。なるほど、これも確かに千畳敷というのに違いはなかった。

画像 12:48、深浦駅に到着。全国区で名を知られた駅というわけではないが、五能線前線のちょうど中ほど辺りに位置することもあってか、この路線に属する駅の中では割と重要な駅に位置付けられているらしい。卵が先か鶏が先かみたいな話だが、多くの場合、この駅で列車の乗り継ぎが発生するようだ。今回の場合、東能代行きの列車が駅wp出るのは14:32。周辺にめぼしい観光スポットはないようだが、時間帯から言ってまず、昼飯を食べるということは考えられる。昨日、青森で海鮮を食べずに終わったこともあり、気分はシーフードである。ちょうどここ深浦は、海辺の町である。もっとも、ちょっと見た感じだと辺りは漁港の雰囲気ではなく、歴史的には北前船の風待ち港として栄えた過去を持つのだそうだ。町並みは、五能線と並行する国道101号に沿って広がっている。五能線より山側は、海岸段丘上の高台となっておりどうも狭小な感じのする街並みである。食べ物屋は、探せば少しくらいはありそうな感じだが、手っ取り早く最初に目についた焼肉&カラオケの看板を掲げる店に入った。シーフードではないけれど、どうも海を見ながら食事ができるとかいううわさを聞きつけ、そういう選択になった。一応、丼ものが自慢で、焼肉が本業のようなので、ランチメニューでラーメンと焼肉丼のセットを頼んだ。いよいよもって海鮮とは縁遠いが、ラーメンからはほのかに魚介系の香りが感じられたような気がした。海を眺めながら、魚介だしが利いているような気がするラーメンを食べる。海は、波こそ穏やかだが、日本海だなあという感じがする。スタイリッシュとはまた違う。コーヒーでもすすりながら永井ができそうなスタイルの店ならそれも良かったかもしれないが、どうもそう言う感じの店ではなさそうだったので、食事が終わったら早々に店を出ることにした。

画像 海辺の田舎町の国道を歩く。そして気づく。なんか、いかにも海鮮を出していそうな店があるではないか。欲を言えば、海鮮丼的なものを食べたかったし、店の構えも名前も洋風なのは気になるが、店の前にはためく幟には「深浦マグロあります マグロ刺身御膳 マグロ丼御膳」と染め上げられている。青森でマグロというと大間が有名だが、深浦マグロ。そういうのもあるのか。先ほどの昼食前にもおやつをぱくついていたこともあって、今さらマグロ何某を食べる余裕はない。名残惜しいが、深浦マグロとはお別れをし、近くにあった深浦町歴史民俗資料館に立ち寄ってみた。規模の小さな町によくある、古民具を展示している感じの施設だったけれど、全体に地域色には乏しく感じた。古民具というより、古道具が並んでいるといった雰囲気だ。館内ではそれらのほかに、多分地元の素人~半プロクラスの作品を展示する美術館的なものもあったが、総じて観光客向けの施設というより、地元向けの文化施設といったところなのかもしれない。その後、海辺をふらふらしたりしながら時間をつぶす。食事のおかげで良い感じに時間を消費したせいもあって、思ったほどには手持無沙汰にはならずに済んだ。

 そして14:32、深浦駅を出発。この後は、終点の東能代駅まで乗り換えなしで進める。五能線は、なお海辺の線路をとコトコと駆けていくが、心なしか、深浦駅以前ほど波打ち際に近いところを走ることはないような気がする。海岸段丘の上に上がってみたり、線路と海の間が樹林で隔てられたりしている箇所も多く、このくらいの路線なら日本のほかの地にもありそうな気はする。だからというわけではないが、だんだん眠気が増してきて、ついうとうとしてしまった。ウェスパ椿山駅までは起きていたのだが、陸奥沢辺駅を完全に寝過ごしてしまった。アイテムで回収する。レーダーを無駄にしてしまった。Vガンダムに出てきそうな語感のウェスパ椿山駅だが、近在の宿泊施設の名前をそのまま駅名にしているらしい。ガーラ湯沢と通じるものがある。

 心なしか海との距離感が生まれていくように感じられる五能線だけれど、それとは対照的に、山、というか山岳リゾートが近づいてくるようである。十二湖駅を通り過ぎた近辺からは白神岳の山すそに当たり、駅も白神登山口といった具合に、山側の観光地・景勝地をその名に拝借したところがちらほら見当たる。もっとも、車窓風景はさほどに自然遺産のお膝元を感じさせるようなものとはならない。右手に牧歌的な農村地帯見えるが、左手はというと、うっそうと茂る木々が見える区間が長く、端正な立ち姿の山が見える…というようなこともない。やがて、海と林とに挟まれた区間からある程度広い平地のエリアに出ると、終点の東能代は近い。能代市の中心駅はあくまで能代駅で、駅周辺もある程度大きな町となっているが、列車はそこを通過し、もう一つ先の東能代駅に入線した。たぶん、もともと周辺の市街地化が進んでいた能代を二つの路線が接続するターミナルとして整備しづらい事情があったのだろう。東能代の駅前にも住宅地は広がっているが、明らかに町はずれの感じがする。というか私は昔、この駅に降り立ったことがある。駅の南東の山中に築かれた檜山城の跡を見学するための下車だった。駅から歩くにはかなり距離があったので、駅前でタクシーを拾ったのだけれど、この辺りの町にはさほど奥行きがない印象をもった記憶はある。ちなみに檜山は北限の茶で知られるが、納豆も名産らしい。お茶はともかく納豆には興味を惹かれるが、今回もそれを賞味する機会はなかった。

 檜山駅で乗り換え、奥羽本線に乗り換え。いまいちつかみどころのない、茫洋とした平地を眺めながら南進する。途中、八郎潟駅に差し掛かったことで気が付く。今目にしているだだっ広い水田地帯は、社会科の教科書にも出てきた八郎潟干拓地らしい。一大事業だった八郎潟の干拓は、その完成までに長い時間を費やし、その間に日本の社会構造が大きく変化したため、当初期待されたほどに重要な意味を持つ事業とはならず、あまつさえ減反政策の開始という展開も見たため、干拓自体は成っても、手放しで大成功と評価されることは少ないように思う。そういう目で見ると、だだっ広い水田地帯は何の役に立ったのだろうという気もしてくる。往時の八郎潟は、国内では琵琶湖に着く規模を誇る湖だったのだそうだ。

 今日の宿は秋田市内に押さえている。これで日本全国四十七都道府県のすべてに宿泊という対岸が成就される運びなのだが、一気に秋田までは進まず、途中にある追分駅で下車。いかにも交通の結束点になってそうな名前の駅だが、ここは奥羽本線と男鹿線の乗換駅となっている。時刻はすでに17時を回っている。ここからどこかを観光するにはいささか遅い時間帯である。増して都市部ならいざ知らず、男鹿とはナマハゲで有名な男鹿である。どちらかというと土俗の香りがする地域。夜ともなればひたすら暗いことは想像に難くない。この地域では脇本城を一度見学したいとは思っているのだが、今回はただ男鹿駅まで行って帰るだけの道のりとなる。追分駅ではまたしても長めの待ち時間ができたが、たまたま駅前で伝説レイドが発生し、乗り換え列車の出発直前ではあったが、地元高校生たちの協力によりディアルガを捕まえることができた。というか、都市部でなくても伝説レイドが成立したのが意外だった。

画像 真っ暗闇の中を進み、男鹿駅に到着。時間にして40分ほどの旅路だっただろうか。男鹿駅はわりと近年になって改装したらしく、ナマハゲをモチーフとしたデザインのこじゃれた駅舎が建っていた。暗がりの中に昔の駅舎らしきものがあって、現在は男鹿市の観光協会として使用されているようだった。古い駅舎は残しつつ、新しい駅舎が建ったということになるが、二つの駅舎が共存する形になった結果、新駅舎は盲腸線の終着駅らしく、線路の先に駅舎が建つ構造となっていた。大きくはない駅舎だったけれど、北国の駅らしく空調の効いた待合室があり、中にはやっぱりナマハゲが展示されていた。

 男鹿駅まで来たら、後は10分余りの待ち時間で秋田方面に折り返すことになるのだが、発車が間近にならないと改札は行わない扱いとなっているらしく、しばらくこの待合室で時間をつぶすことになった。部屋の中にはテレビがあり、NHKのニュースが流れていたが、アナウンサーは気になることを告げていた。明日は、関東から東北にかけて大荒れの天候になるらしく、暴風への警戒が必要になるという。春の嵐が近づいていた。

つづく

8年目の春に・その6

画像 だいぶ前の紅白歌合戦だったと思うが、何とかいう名前の演歌歌手が、自分の持ち歌に「五能線」という歌があるのを話していた。青森県の五所川原と秋田県の能代を結ぶ路線だから五能線という、ありがちな名づけをされた路線ではあるけれど、歌の題材になるくらい風光明媚な路線らしいというのは印象に残り、地図でどこを走っているのか調べてみたことがある。結果、移動効率最優先で考えた場合はまず利用価値がない路線だと判断していた。青森県と秋田県の県境付近の日本海沿岸に用事がない限りは使う必要がなさそうだ。何しろ、青森・秋田間を普通に移動するだけなら奥羽本線を使った方がずっと早い。強いて言うなら、世界遺産となった白神山地の白神岳を目指すなら利用してみる価値もあるだろうかといった程度だ。ただし、観光路線としてはそれなりにメジャーらしく、リゾートしらかみなんていう全席指定の列車も走っているようである。ちなみに演歌の方の五能線の歌詞も気になって調べてみたのだけれど、ご当地ソングとしては弱く、五能線という路線名とセットで日本海の名が出てくる以外は、どうということのない失恋ソングだった。特に路線沿線の情景がうまく盛り込まれているというわけでもなさそうだった。

 さて、そんな感じで純粋な移動手段として注目した場合は使いにくい五能線だけれど、何となく旅情ありげな下馬評と、便利が悪くてもできるだけ乗車しなければならない思い出集めの旅、さらには前々から訪ねてみたいと思っていた太宰治の生家・斜陽館が方角的には五能線の沿線みたいなところに位置していることもあって、ついにこの五能線制覇に着手することにした。時刻表を調べてみても、芸備線あたりに比べればつけ入るすきもありそうだ。そこで考えた作戦はこうである。まず朝一番で弘前を発ち、五所川原駅から津軽鉄道に入って全線を取った後、金木まで戻って斜陽館を見学し、さらにもう一度五所川原まで引き返してそこから一気に五能線を回収するというものだ。五能線深浦駅で2時間近く待ち時間が発生するものの、備後落合で何時間も待つのを思えばずっと状況は良さそうである。

 というわけで、またしても未明の起床。とりあえず、朝湯を使うが、その時、前夜の入浴時に見つけられなかった体洗い用のメッシュタオルが大浴場に備え付けられているのを見つけた。これがなかったので昨晩はおざなりな洗い方をしてしまったのだけれど、こういうものがあるならもう一度入念に体を洗わなければ。まったく、宿泊料金がそんなに高くはないので声高に不満は言わないが、こういうところが行き届かないがために評価を落とすのでは寂しいよなあなどと、実際声には出さなかったが心の中でぶつくさ言いながら一通り体を洗っていたら、思ったより時間を取られた。そして、出足が遅れた。五能線は思ったよか本数が走っていることはわかったが、実は津軽鉄道はかなり運行本数が少なく、斜陽館の見学と五能線走破を両立しようとするとこの早朝の出発となる。もしここで出遅れると、後の旅程に及ぼす影響は甚大。近場の旅行なら再チャレンジを期すこともできるのだけれど、青森くんだりまではホイホイこれるものではないので、弘前駅まで走ることになった。結果、体を洗った意味もあまりなくなってしまうような汗まみれの状態になってしまったのだけれど、駅についてみて走らなければならないほどに余裕がなかったわけではないことに気が付いた。

画像 弘前から五所川原までは、直線距離で20㎞ほどである。そして斜陽館の開館は午前9時。にもかかわらず、6時前の弘前駅を出発するという理不尽。JRの五所川原駅に到着したのは6:24で、五能線の車内アナウンスによれば乗り換え時間があまりないので、そのまま津軽鉄道の列車が待つホームに進めというようなニュアンスのことを言っている。JRと五能線のホームの間には乗り換え改札がなく、システムが良くわからないのが不安になってくる。そして津軽鉄道にあてがわれたホームには、強烈に年代物の車両が待ち構えていた。いつぞやの大井川鐡道の列車に比べればだいぶ新しくは見えるが、遅くとも昭和末に造られた列車という感じである。そしてそこからさほど離れていないところに、半ば朽ちかけのようなさらに古い車両も。これは明らかに乗るためのものではないけれど、まるで時の流れから取り残されたかのようなその様子に、強烈なカルチャーショックを受ける。

 弘前は、北に接する五所川原方面以外の三方を山に囲まれた、盆地のような地形に位置している。おそらく気候も内陸性を呈するのだろう、残雪も少なからず目についたが、津軽鉄道沿線はさほどでもない。真っ白な雪原をロートルのローカル列車が走り抜けていくような様は想像すると、それなりに絵になりそうな気はするのだけれど、今日に限っては普通の田園地帯を走りぬけているといった感じである。元の予定では、金木で下車してそこから先の数駅はレーダーで片を付けるつもりでいたのだが、それだとどのみち金木で列車を降りてから丸々2時間以上の待ち時間が生じるので、終点の津軽中里駅まで行ってみた。津軽中里の駅前は、思っていたより民家が集まっており、辺境の地に運ばれた感はなかったし、実際、一緒に降りたおばあさんもいたので、ある程度需要のある駅なのだろう、しかし、駅周辺には時間をつぶせるようなものは見当たらず、すぐに折り返さなければ金木へ戻る足がなくなるので、ちょっとだけ駅の外に出た後は、そのまま乗ってきた列車に戻った。ちなみに、切符を買う場面は最後まで訪れなかったので、現金で精算した。路面電車みたいな運用の列車である。

 金木町は、現在は五所川原市の一部となっているが、2005年度末までは町制を敷いていた。「東京喰種」の主人公が金木(カネキ)なので、文学青年だった金木に対し、高槻先生が太宰治の出身地である金木町のことに言及している場面もあったとおり、「かなぎまち」と読む。実は吉幾三氏の出身地でもあるらしく、だからというのでもないが、五所川原駅を別にすれば、沿線でもっとも開けた駅前となっている。

 本州では最も北の県とはいえ、3月もなれば一応は春である。暖かいとまではいかないが、凍えるほどに寒くはないのが救いといったところだろうか。8時前の金木の町は、ひんやりとした空気には満ちているけれど、どちらかと言えば清冽と表現する方がふさわしい情感を醸していた。問題は、ここからなお一時間余り、することがないということだ。そこで、駅周辺の、たぶん旧金木町でも最も中心的な位置を占めていたと思われる一画を散策してみる。意外にも農村地帯ではなく、民家が立ち並んでいる。商店も、少なからずあるにはあるけれど、大規模なものはないし、零細で小ぢんまりとした店にはどこか元気がなく、無人となったらしいレンタルビデオ店に至っては朽ちるに任せていた。崩れ落ちたコンクリート製の庇の一部が道路上に転がっていたりして、結構危なっかしい。それでもその昔にはレンタルビデオ店があった辺りは、典型的な田舎町といったところだろうか。たぶん、それこそ太宰治の生きた時代、日本各地の町々の発達の度合いの差が、現在に比べて相対的に小さかっただろうころ、ここ金木の町はこの地域では大きな町といえたのだろう。幼少から少年期まで、太宰はこの街で資産家の息子として暮らし、近隣には彼が子供の頃にしばしば遊んだとされる寺社もあった。

 そんなものを見つつ、金木の町をあっちへうろうろこっちへうろうろしているうちに、どうにか9時になった。斜陽館は金木の観光の核心部となっており、目の前には観光物産館もあるのだが、まずこちらの物産館が動き始めた。その様子の変化に気づいて斜陽館の方を見ると、入口の戸が開け放たれたのが見えた。いつもだと、こういう施設への一番乗りは何となく気おくれがするのだけれど、今日はそんなことも言ってられない。もう待つのには飽きた。

画像 斜陽館は、通りに面している部分だけ見てもかなり立派な建物であることがわかるが、奥行きの深さも見て取れ、いかにも、太宰が自嘲気味に言うところの素封家が暮らしそうな住まいという感じがする。太宰治の作品のうち、まともに読んだことがあるのは国語の教科書に載っていた「富嶽百景」くらいのものなのだが、一般には「斜陽」がもっとも有名な一編のうちの一つなのだろう。もともと斜陽という言葉には夕暮れ時の日差し程度の意味しかないのだと思うが、太宰が没落していく名家、つまりは戦中・戦後と時を経る中で権勢に陰りが見えた生家をモチーフとした小説の題名にこの言葉を用いたために、勢いに衰えが現れたことの慣用表現として人口に膾炙されるようになった。ところがこの斜陽館は、なかなかどうして立派なもののようだ。もっとも、作家の感性は入れ物だけが無暗に立派で内実が伴わないことに寂寥感を覚えたのかもしれないが。

画像 この斜陽館、現在は国の重要文化財となっているが、戦後間もない昭和25年から平成の初めまで旅館として使われており、太宰治ファンの宿泊客も多く訪れたのだという。ただ、もともと観光資源や宿泊需要が多いとは言えない地域だったためか、廃業の憂き目を見、その際に金木町が建物を買い取ったのだそうである。現在、斜陽館の経営が潤っているのかどうかは良くわからないが、この金木町の判断は慧眼だったというのかなという気がする。豪壮な邸内の様子には見ごたえがあり、未来に渡って残すに値するものなのだと思う。別に太宰治の熱心な読者というわけでもない、軽薄な観光客にとってありがたいのは、邸内の大半の場所の撮影が許されていることで、観光施設としても非常に良心的という気がする。幸か不幸か、館内に私以外の客の姿はなく、気候のせいもあって何となく寒々しさを覚えないでもなかったが、この際落ち着いて建物の中を見学できたのは良かったことだとしておこう。「人間失格」は暗そうだし、「斜陽」も重めなのだろうが、「津軽」くらいは事前に読んだうえでここにやってくればよかったかなあと、軽く後悔したりもした。ちなみに、豪邸の建築様式自体も印象に残ったが、特に印象深かったのは、太宰が子供の頃に勉強部屋としていた部屋の襖に書かれた漢詩の一部、「斜陽」の二文字だった。

 ひたすら移動し続けるばかりだった今回の旅の中で、初めて満足のいく観光ができたような気がする。金木町で長年の夢をかなえた後は、再び五能線に乗り換える。ただ、五能線側は津軽鉄道との乗り継ぎを考慮してくれてはいないため、ここでしばらくの待ち時間が生じる。できた時間は補給に充てるとともに、ちょっとだけ五所川原の町を歩いてみた。気になっていたのが立佞武多の館で、青森市にあるねぶたの家ワ・ラッセと言い、能登のキリコ会館と言い、私はこの種の祭り屋台の展示を行う施設が好きである。中に入ればさぞや楽しめたのだろうなとは思うのだが、そこまでの時間はなさそうだったので、そう言うものがあるというのを確認しただけに終わった。

つづく

8年目の春に・その5

 昨日は、ぐっすりとは眠れない夜行バスでの旅が終わるや否や、一日に渡る移動を続けた。今日は今日で、朝一番から動き出している。当然、眠い。ようやく走り出した津軽線の窓の向こうに見える風景は、目を見張るほどの絶景というわけではない。まさに牧歌的と呼ぶにふさわしい、田舎町のそれだ。まどろむような光景が続く。昨夜の久慈は凍えるように寒かったが、意外にも今日は気温が上がっているらしく、うたたねできたら実に気持ちよさそうな陽気である。以前の18きっぷ旅なら、終着駅まで乗って問題ないような区間なら開き直って眠ることができたのだが、それができないのが駅取り旅の恐ろしいところである。

 睡魔と戦いながら、途中の蟹田駅で三厩行きに乗り換える。意外に乗客は多く、車内がガラガラになるということはない。純粋な地元客という雰囲気の人は数えるほどしかおらず、鉄道使いの気をまとった乗客も多いが、子供だてらに鉄道使いと思われる幼児を連れた両親とか、ちょっと変わった構成のグループもちらほらといる。遠征してきた感じではなく、地元青森でも、三厩行き列車はちょっとした見ものの扱いなのかもしれない。意外と言えば意外なのだが、ひたすら僻地に向かうかのように見えるこの路線沿線でも、民家が途絶える区間はそんなに多くない。新幹線駅である奥津軽いまべつ駅周辺(在来線の駅としては津軽二股駅)近辺が山間部となっており、最も民家がまばらになっている感じだ。皮肉なことに、民家が少ないからこそ新たに新幹線の駅を作れたということなのだろう。ただ、それにしたってこんなところに新幹線の駅がいるのだろうか。北海道新幹線の車中からちょっと眺めただけの当駅の簡素な風景が思い出された。

画像 青森駅を出てから1時間半近く、12時半間際に三厩駅に到着。掘立小屋みたいな駅舎があるだけの駅を想像していたのに、まがりなりにも終着駅だからか、想像以上にちゃんとした新しい駅舎がある。冬場の寒さが厳しいこともあって、あまり簡素な駅ではまずいという判断もあるのかもしれないが、駅舎正面にはちょっと立派な看板が掲げられていて青森県と北海道南端部の地図とともに、どこか誇らしげにこんなことが書かれていた。「津軽半島最北端の駅 三厩」。さらに言えば「津軽国定公園 竜飛」とも書かれており、金色のプレートには「東北の駅百選選定駅」とも書かれている。ここから有名な竜飛岬に向かうバスが出ており、私が乗った列車にも接続しているようだったので、観光需要はそれなりにある駅だということか。余談だがここ三厩から、津軽鉄道線の終着駅津軽中里駅に向かう路線バスも走っているようで、直感的に受ける印象以上に他地域との結びつきは強いのかもしれない。なお、津軽鉄道には明日乗る予定である。

 三厩駅から、またしても青森駅まで引き返す。今日の旅は、この行って帰るパターンが多いのが特徴なのかもしれない。青森駅から、今度は奥羽本線に乗り換え。ちょっと時間ができそうだったので駅前の帆立小屋で海鮮でも食べていこうかと思っていたのだけれど、比較的遅い時間帯に朝食?としてそばを食べたのが障ったのか、ここからそれなりに値の張りそうな昼食を食べようという気にもならず、これは何となく計画倒れに終わった。代わりにリンゴジュースしか売っていない自販機でリンゴジュースを買った。違いの分かる青森県民向けの商品らしく、ぱっと見はリンゴジュースだけを何十本も詰め込んだ自販機にしか見えないのだけれど、よくよく見ると「ふじ」「王林」「つがる」とかいった具合に、リンゴの品種が違うらしい。物は試しで、唯一聞いたことのなかった品種「きおう」を買ってみたが、思った以上にリンゴジュースだった。よくわからないのは、そんな自販機の中に「青森りんご」とだけ銘打たれた商品が並んでいたことだった。他のジュースも全部青森りんごのジュースのはずなのに。そして、王林は王林ちゃん(アイドル)の躍進がなければ商品化されなかったのではないかと邪推も働く。

 青森駅から、今度は弘前駅へと移動する。青森と弘前、どちらが県内で優位を保っているのかは定かではないが、弘前には弘南鉄道という私鉄が存在しており、弘前市内を起点にして二路線が周辺市町との間をつないでいる。このうち、大鰐線の方はほぼ奥羽本線と並行しているので乗る意義が乏しく、アイテムで足りない分は回収できてしまうので、今回はその方針で行くことにする。もう一方の黒石との間を結ぶ弘南線の方は、例によってレーダーで力業で全回収してしまうことはできそうだったが、話のタネに乗ってみるくらいの時間的余裕はあるので乗ってみることにした。

 弘南鉄道の弘前駅はJRの駅に隣接して建っている。ただ、ホーム同士がつながっていて乗り換え改札が存在しているというようなものではなく、一度駅の外に出てもう一度入りなおさなければならない構造になっていた。改札は、列車が出発する一定時間前からでないと始まらない扱いになっているようなので、呆けたように券売機の前あたりに屯していた。改札のところに発光するリンゴの実がディスプレイされており、ほほえましい。後で知ったのだけれど、このリンゴ、「『備え』と『いやし』が一緒になった、新しい形の防災ライト『APPLE LIGHT(アップルライト)』」として数量限定で販売されているものらしかった。値段が手ごろならお土産代わりに買って帰ったかもしれないが、結構ちゃんとした素材などを使っているのか一個当たり3000円程度するようだったので購入は見送った。それにしても、青森県というとリンゴの産地として有名だが、特に弘前周辺はリンゴ熱が高いらしい。

画像 弘南線は、弘前‐黒石間の16.8㎞を13の駅で結ぶ短い路線である。いかにも地域密着型のローカル線らしく、○○高校前という名の駅がやけに多いのと、「バルーンさが」並みの珍駅名「田んぼアート」駅が存在するのが一つの特徴なのかもしれない。ただ、田んぼアートはその名の通りに稲が田んぼに青々と茂る夏の時期しか列車が止まらない臨時駅の扱いなので、見渡す限りの田んぼに白く雪が積もる春まだ来のこの時期は、無情にも通過されてしまう。逆にこういう景観が広がっているのならと、山師の根性を見せて、この地域の魂の山・岩木山が積雪の田園地帯の向こうにそばだつ姿を撮影してやろうと思ったのだが、基本的には西方向、つまり逆光となる方角に山を見る形になるのでうまくいかなかった。

画像 約30分かけて、黒石駅に到着。三厩駅で予想を裏切られたのとは対照的に、一応黒石市の玄関口と思われる駅なのに、やけにレトロなムードを漂わせる駅である。改札を出たとき、隣接してちょっとした駅ビル程度のものがあるのかに見えたが、実際にはコープ黒石店の建物にへばりつくようにして年季物の駅舎が建っている感じだった。建物も年季が入っているが、特に昭和レトロを感じさせるのは壁面に張り付いた「黒石駅」のプレートのフォントのせいなのかもしれない。この線も盲腸線なので、ここからは再度同じ経路を逆にたどって弘前まで引き返さざるを得ない。ここ黒石駅でも、特にすることはないのだが、20分ほどの待ち時間が発生するので、駅周辺をうろうろしてみる。よほど小さな駅でもない限り、たいてい駅前には観光案内の看板というのがあって、黒石駅前にもそういうのがあった。そこで紹介されている内容を見る限り、こみせ通りとか味のある街角は存在しているようだし、黒石もねぷたで有名な街だったはずだ。魅力のある街ということはできるのかもしれない。今日は鉄道に乗ること自体が目的の日となっているが、ロケハンとしての意味を見いだせたような気はする。ちなみに、黒石も焼きそばを名物としているようだが、焼きそばの町黒石を謳う看板に「よぐ来たねし~」と書いてあるのを見て、ハーサカみたいだと思った。

 今日3度目の折り返しを経て、弘前駅に戻る。今日はこの後、奥羽本線を大館駅まで進み、そこからレーダーを使って鷹ノ巣駅との間にある駅を取る。再び弘前駅を出る頃にはすでに日も落ちかけており、先に進むうちに真っ暗になってしまった。さすが本線格といったところで、利用者も多くローカル線的旅情も乏しく、ひたすら駅を取るためだけの時間がやってくる。弘前‐大舘間は弘南線の大鰐線も並行しているので、普通に連打しているだけでも多くの駅が取れるので作戦も何もあったものではない。

 問題は大館駅での乗り換えである。今日のゴールはつまるところ弘前駅なので、弘前に戻る列車に乗り換える必要があるのだが、時刻表を見ているとその猶予時間は1分しかない。島型のホームで対向列車が待っているとかいうわけでもなければ結構つらい乗り換え時間だが、ネットで調べた限り奥羽本線の上下線乗り換えのためには、こ線橋を渡る必要があることが分かった。とにかく、少しでも階段に近いところに降りられるように、調べられる限りの情報を調べて、大館駅到着を待つ。果たして、乗り変えるべき列車はすでに階段の向こうのホームで待っていた。少しでも先着して、後から来る対向列車を待つ形の方が気楽だったのだが、それを言っても仕方がない。ドアが開くや、下り列車の待つホームに駆け出す。18きっぷで乗っているから問題がないようなものの、列車を降り、改札を出ないまま来た方向に乗り返す行動パターンというのは、どうもキセル臭くて良くない。そこが気になったが、どうにかのるかそるかの1分乗り換えを決め、無事弘前に帰還することができた。失敗したら、次の列車が来るのは大体30分後。待てない時間ではないが、足止めを食わずに済んだのはありがたかった。

 弘前の宿は、十年ほど前に弘前止まりを決めたときに使ったのと同じ、カプセルイン弘前。弘前駅周辺ならチェーン展開しているビジネスホテルも数軒あるが、今回も安さを買うことになった。問題は、弘前駅からちょっと距離があることで、最寄り駅はむしろ弘南鉄道の中央弘前駅ということになる。現存天守十二条の一画を担う弘前城にも近く、古くからの市街の中心部はむしろこちらということなのだろう。弘前駅から十数分ほど歩き、中央弘前駅にチェックインしたところでルートビューンを使って大鰐駅と中央弘前駅を結んで、大鰐線をコンプリート。今日のゲーム内ミッションはこれにて完了である。

 困ったのは夕飯で、宿周辺は盛り場風の雰囲気を出していながら、飲み屋以外の純粋な食べ物屋がほとんど見当たらない。たまにあったとしても、マスターが暇そうにしているのが通りからもわかる、それでいて小洒落た感じのレストランが多く、ちょっと入りづらい。最後は、少し離れたところにあったびっくりドンキーに転がり込んで、どうにか飯問題は解決した。ファミレスとはよく言ったもので、ああいう店は家族連れが安心して食事をできるようにサービスを提供するホスピタリティ精神にあふれているのを感じたが、おっさんの一人客はやはり何となく場違い感があるのを痛感した。それにしても、前回の弘前泊まりの時は、いったいどこで何を食べたのだろう。謎である。

つづく

8年目の春に・その4

画像 駅メモのゲーム上、青森県の登録駅は全172駅となっている。もっと少ない県がある一方、もっと多い都道府県もある。要するに平均的な数と言える。路線図上の線形に注目すると、隣接県に出ていく箇所が意外と多く、かつ離れているのが県コンプを目指す上で厄介と言えば厄介である。狭義での盲腸線とは違うので、A路線で他県に出た後、県外でB路線に入って再び青森県内に戻るという手立ては考えられるのだが、青森県主体の攻略計画を立てようとすると、同じ路線を行って戻るパターンが多くなる。実際乗るしか攻略方法がない、最狭義での盲腸線と言えるのは下北半島を縦断する大湊線程度のものだが、他路線からのアイテム使用で済ますことを考慮しない場合には、津軽半島北部まで続く津軽線や非JR路線の津軽鉄道や弘南鉄道も、一度乗ったら折り返しのことを考えなければならない線形をしている。さらには廃線・廃駅もあり、北海道旅の帰路に、のるかそるかの大勝負の末に取った竜飛海底駅のほか、二本ばかり廃線が登録されている。総じて、細かく乗り換え、ちょこまか動き回る必要のある県ということができよう。

 とは言え、青森県はなかなか簡単に来れるような場所ではない。北海道や沖縄などですら、飛行機利用を辞さなければ比較的安価かつ短時間で行けるのに対し、青森は飛行機でのアクセスが現実的でない半端さが泣き所だ。従って、一度青森入りしたからには今回で駅集めは決着するくらいの覚悟が必要だと見た。そこで考えた今回のプランはこうである。昨夜八戸線を取ったのを皮切りに、今日はまず難物の大湊線を取る。青い森鉄道は県内の幹線なので必然的に取ることになるものとして、もう一つ手ごわそうな津軽線も取る。ここが二本柱となる。明日は五能線を取るつもりなので、一日を終えてのキャンプ地は弘前であることが望ましい。弘前周辺には弘南鉄道という二路線を有する私鉄もあるので、これの弘南線(弘前‐黒石)を乗りつぶしつつ、奥羽本線を弘前から大館まで往復すると、残された大鰐線をアイテムで回収することが可能になるので、こちらはひとまずアイテムで済ませることにする。なお、計画立案中に青い森鉄道沿線からスキル+アイテムで取りつくせる二廃線の存在が判明したので、こちらも取りにかかる計画とした。今日は、純粋に鉄道に乗るだけの日である。本来、三陸旅と五能線+金木町行きが両輪となる旅のうちのつなぎの日程というのが一番実情を正しく表した言い方となるが、行動だけ見れば鉄道マニアの旅そのものだ。

 まずは道中でくだんの廃線を取りながら、青い森鉄道で野辺地まで向かう。廃線は、南部縦貫鉄道線及び十和田観光電鉄という。前者はともかく後者は、過去何度か青森に足を運んだ際にはまだ現存していた路線のようだ。一番肉薄したのは、位置的にキリストの墓を見に行った旅の時のことだろうが、これが2015年の話で、この際にはすでに廃止されていた。ただ、下北半島を走って恐山に向かった2011年夏の旅の時には、まだ永らえていたということになる。どうやら、東日本大震災で直接的な打撃を受けることこそなかったが、もともと東北新幹線全線開業で苦戦の続いていた鉄道事業を支えていた観光事業も震災により不振に陥り、廃業したということのようである。

画像 野辺地というのは、特に何もない町だ。というとあんまりだが、少なくとも私はこの街にどんなものがあるのかをよく知らない。強いて言うなら、新帝都物語に出てきたなという程度の認識だが、大湊線がこの地から分岐していることからもわかる通り、下北半島の付け根に当たる。交通の要地と言えよう。だいぶ北まで来たこともあって、駅の近辺には雪が融け残っている。なんか駅の裏手には日本最古の鉄道防雪林なるものがあるらしく、鉄道使い達にとってはちょっとした関心の対象となるらしい。もっとも、見た目には普通の植林みたいなものなので、やはり渋好みの旧跡?なのかもしれない。待ち時間はわずかで、今日はここからJRに乗り換えるため、18きっぷに入鋏してもらう。この野辺地駅、JR大湊線の駅ではあるけれど、実際には青い森鉄道主体の駅という感じがして、駅員の人の物腰も何となくJRっぽくない。JRっぽい人というのがどういう人なのか、自分でもうまく説明できない。

 大湊線は、下北半島の陸奥湾側、つまり西海岸を走る路線である。過去に恐山に行ったとき、この路線を利用することこそなかったが、北に向かう国道279号と絡み合うように伸びていたので、そう言うものがあるということは知っていた。というか、3桁とは言え、国道と踏切で交差していたりするのが妙に印象に残っている。国道の踏切というのは、ありそうで意外にない。いや、なさそうでないというべきなのか。実際に乗ってみるまではものすごくローカルな路線なのかと思いきや、自分以外誰も乗っていないというほどの路線ではなかった。ただ、土曜日とは言え早い時間帯なので、乗っているのは何となく鉄道使い中心なのかなという感じはする。乗り合わせた一人の若い男は、列車の天井に正体不明の器具を取り付ける意味不明の作業を行っていたが、どうやら車内スピーカーにマイクを取り付けていたものと思われる。音に特化したタイプの鉄道使いがいるといううわさも聞いたことはあったが、実際にああいうことをしているのだなと感心した。もっとも、都心部の混雑する路線で同じようなことを始めたら即座に取り押さえられそうな不審行動であるのも間違いがない。

画像 この路線が走る場所を地図で眺めるだけでもおおよそ雰囲気はわかるところだが、列車は本州最北の内海を眺めながら走る。冬の日本海のような荒々しさはないが、不思議と最果て感があり、窓の外では演歌にでも歌われそうな抒情的な光景が展開されている。乗車時間はべらぼうに長いわけではなく、約1時間で終点の大湊駅に着いた。駅の看板には、「てっぺんの終着駅 大湊駅」とあった。言葉の意味は分からないが、何か有無を言わさず納得させられそうな説得力はある。ちなみに大湊駅は、いくらか装飾は施されていたものの、小さな駅であった。意外にも駅前にはホテルフォルクローロがあった。というかこのフォルクローロというホテル、JR東日本が東北エリアで展開するホテルとかいった位置づけの物なのだろうか。ちなみに、恐山に行こうという場合は、ここ大湊駅か一つ野辺地寄りの下北駅からバスを使うという手段が考えられるが、夏のものという恐山につきもののステレオタイプそのままに、冬場は恐山行きのバスがないようだ。そういう事情もあって、折り返しの列車を30分ほど待って、野辺地まで引き上げた。

 帰りは快速列車に乗れたので、1時間に満たない時間で野辺地まで戻れた。が、野辺地での乗り継ぎがあまり良くない。40分ほど時間があったので、野辺地駅のそば屋「パクパク」でそばを食べた。ちょっとした名物のようなものとして北前駅そばというのがある風だったのだが、食券の販売機にはそういったメニューが見当たらなかったので、深追いはせずにごく普通のそばを頼んだ。朝早い時間帯は先着10名ほどにゆで卵がふるまわれるそうなので、それはありがたくいただいておいた。それにしてもパクパクというのは蕎麦屋の屋号っぽくない。「パクパクやっちゃえ」の号令の下、兄貴と似たような技を使うチンパンジーみたいな名前である。というか本業は駅前の焼鳥屋なのだろうか。こういう地域に密着した感は、ローカル線の駅っぽくで悪くないと思う。

 10:30、青森駅に到着。次はここから、下北半島の対岸に位置する津軽半島に向かう。もともと津軽線の先は青函トンネルに通じていた。厳密には中小国駅より北で三厩止まりの線と青函トンネルに進む海峡線の二系統に分岐していたということだと思うのだが、青函トンネルを北海道新幹線が走るようになったことで在来線の路線としては津軽線のみが残る形となり、寸止めみたいな三厩駅が終着駅となった。先だっての北海道からの帰り、竜飛海底駅を取った達成感で目がくらんでいたのだが、このくらい面倒な駅ならアイテムで取っておいても良かったような気はする。10年あまり前、函館までは青春18きっぷ+在来線特急で旅したことがあるのだから、行ったこともない駅をアイテムで取るのは極力避けるというマイルールには抵触しない。が、そうしなかったものを悔やんでも今さらどうしようもないので、実際三厩に行ってみることにした。調べてみると、昼前のこのタイミングからだと比較的容易に三厩まで行って帰って来れることが分かった。

 とは言うものの、青森駅でも30分ちょっとの待ち時間が発生する。ここまで青い森鉄道のきっぷで来ていることもあるし、一度駅の外に出てみる。青森駅の中には乗り換え改札が存在せず、きっぷさえ持っていればダイレクトに両社の路線を乗り換えても実害はない。今日はすでに野辺地で18きっぷへの入鋏を済ませているので実際そうすることもできたのだが、次に乗る肝心の蟹田行津軽線列車が駅構内に見当たらなかった。

 青森駅は、国鉄感漂う駅である。国鉄感という概念は、この旅で学んだ言葉では表現しにくい風合いのような概念なのだが、2階建てくらいのコンクリート製の武骨で飾り気のない駅舎というのがおおよそ共通する特徴で、とにかく前時代感がある。平成も間もなく終わるが、昭和的というのが近いのかもしれない。その一つの典型である青森駅は、県庁所在地の名を背負う駅としてはほとんど見た記憶のないタイプの駅である。上に背の高い駅ビルを背負うでなく、横に規模の大きな商業施設を従えるでもなく、売店に毛の生えた程度の店はいくつかあるが、ほぼ鉄道に乗るための機能しか有していない感じの駅である。

 駅の外に出ると、さすがにそれなりに町並みが発展していて、青森県の津軽と南部のちょうど中ほどに位置する中核的な都市というのはわかるのだが、それほど多くの人が行き交うわけでもない。この駅の最盛期は、構内の連絡通路でも説明されている通り、青函連絡船に接続する役割を担っていた時期なのかもしれない。青森駅は極めて海に近いところにある。現在でも青森から函館に向かうフェリー航路はあるようだが、これは駅からちょっと離れた場所で発着しているようだ。往時との雰囲気とは違うような気がする。いずれにせよ、青函トンネルができ、陸路というか空路以外の交通手段としては、そちらを通る新幹線がメインという方向にスライドしていくのだろう。新幹線は、青森駅とは別の場所にある新青森駅を通る。青森駅は域内交通のターミナルという立ち位置に落ち着きそうである。一方、以前使った新青森駅は、いかにも作り立ての新幹線駅という感じで、ここからどのように発展していくのかも未知数といった雰囲気ではあった。というか、青函連絡船の昔までさかのぼると、結局津軽半島の先の三厩駅は、どん詰まりの駅だったのだなあということに気づく。青函トンネルを在来線の特急が走るようになった時期の青春18きっぷには蟹田‐木古内間の特急は特急券なしで乗れる云々ということが書かれていたので、最北の駅三厩はずっと、行きずりの旅人には通過される駅だったのかもしれない。

つづく

8年目の春に・その3

 以前の私の旅では、たいていの場合まっぷるのロードマップを持参していたのだけれど、スマートデバイスの普及に伴い、めっきりそういうこともなくなった。いちばん最近使ったのは、たぶん北海道旅行の時だと思う。北海道くらい広域を移動する旅ならロードマップの持ち味が生きてくるのだけれど、鉄道+徒歩移動がメインの旅だと、スマホなどからデジタル地図を開いた方が実用的である。ただ、路線バスで長距離移動をするような場合は、まだロードマップを活用する領域なのかなあとも思う。別にスマホから地図を見ること自体は可能なのだけれど、比較的長時間にわたって眺める必要に迫られる関係で、少なからずデータ通信量がかさむのと、バッテリーの消耗も進むので、こういう使い方は必ずしもスマートデバイスが向いているとは言い切れない。というわけで、釜石から道の駅までは、どこをどう走るのか事前によくわからなかったし、走っているまさにその最中も良くわからなかった。一応、山田線を補完する役割を担っているため、鉄道線とおおよそ並行するのかなといった程度の認識だ。ちなみに、バスを走らせているのは岩手県交通で、BRTでもJRの代行バスでもない。従って18きっぷは使えない。

 漠然と、ずっと海辺を行くのかと思っていたら、意外に山深いところに向かっていく。トンネルを抜けたあたりで海に近い地域に出た。旧駅名で言うと両石駅付近ということになる。東日本大震災の際には、平時の海岸線からは結構距離がありそうに思える現在のバス停辺りまで浸水したのだという。

 津波の被害に見舞われた地域ではおおよそ共通する景観なのだけれど、海の間際には巨大な防潮堤が建造されている。すでに完成しているのか、最後の仕上げ段階にあるのかはわからないが、素人目には完成品に見える。巨大なコンクリート壁としか表現のしようがないそれの存在により、海に近い道路を走っていながら、海の様子は全く分からない。南リアス線から見下ろした海岸線は箱庭のように美しかったが、あの海が、時により魔性のものと化す恐ろしさがある以上、こういった無粋というよりない建造物が姿を現すのもやむを得ないのだろう。ただ、本当にこの防潮堤により、人は津波を克服できるのだろうかという気がかりはある。今日この先、北リアス線で田老駅という駅を通過することになる。旧田老町は、度重なる津波被害を受け、ついには万里の長城とも称される巨大防潮堤を建造し、チリ地震の際に押し寄せた津波から町を守ったと喧伝されたが、東日本大震災の際、津波はいともたやすくその防潮堤を越えて押し寄せ、一帯を壊滅させた。実はチリ地震の折の津波はさほど大きなものではなく、防潮堤の有無は被害軽減と関係がなかったとも聞くから、結局津波の威力は人知を超えたものだったというよりない。今また三陸沿岸のそこここで、恐らくは田老のものと同等以上防潮堤が築かれているが、これらが100%の安全を保障してくれるものかどうかは首をかしげたくなる。無論、津波の被害が拡大しやすい地勢にあるこの地域で、過去の惨禍に学ばず、無策で被災地に住み続けることもできないだろうが。

 バスは走り、大槌町内に入った。この地区で中心的なポジションに立つと思われるショッピングセンター前で、多くの高校生がバスを降りて行った。ふと、震災当時の記録映像で見られる、津波に慄き泣きじゃくる子供たちの姿が思い浮かんだ。あの子らも今は、中高生くらいになっているのだろう。中年のおっさんにとって十年弱の年月などは一昔前でしかないのだけれど、頑是ない子供を青年に変えるだけの年月だと思うと、その重みと、それだけの期間をもってしてまだまだ癒えない傷跡の深さを思い知らされる。バスは、旧大槌町役場至近のところを走る。解体が終わったのか、作業中なのか、仮囲いが建っていて、地図上役場跡と表示される場所の様子は良くわからなかった。

画像 大槌町の中心部を行き過ぎると、バスは再び高台に向かっていく。吉里吉里(きりきり)というすごい名前の駅が近くにあるらしい。そのインパクトに、思索的なムードは霧消し、やがて道の駅やまだに着いた。決して大きくはない。こんなところが本当にバスの中継点となっているのか、不安はぬぐえないが、一応この先乗車することになる岩手県北バスのバス停があり、時刻表を見ていてもあと20分ほどで久慈行きのバスが来ることになっているので一安心した。

画像 道の駅やまだを出た岩手県北バスの路線バスは、1時間余りをかけて宮古駅前にたどり着いた。ここがまた難所と言えば難所である。久慈行きの三陸鉄道北リアス線は、1時間半後の18:21に宮古駅を出ることになっている。宮古駅周辺は片田舎というほどではないが、大都会でもない。1時間半の時間をどのようにつぶすかは難問である。見たところ、カフェの類もすぐには目につかないし、事前に調べた限りでは手近に観光地がある風でもない。ただ、意外にもキャトルというショッピングセンター風の建物がある。何かないかしらと思い中に入ってみる。今風の、都市郊外型のショッピングセンターではなく、昭和のジャスコみたいな店内である。残念なことに、店内は食料品フロアに、服飾のフロア、100均+レストランのフロアというような構成になっていて、例えば書店を冷やかすというようなことはできない。さらにつらいことに、多少は当てにしたかったレストランも、18時を前にしてすでに閉店している。なんか、施設そのものが18時くらいには閉店しそうな雰囲気すら漂わせている。

 これでは仕方がないので、店外に出た。この先、今日のゴールである八戸までは、なお3時間半ほど要する。ちょっとした食料を求めてコンビニを探す。その道すがらの銀行敷地に津波到達地の石碑を見つけた。これより南の壊滅的被害を受けた地域と違い、宮古駅周辺はかつての街並みが失われたような気配は見て取れないが、それでもやはり無傷ではなかったようである。こんな感じで肌寒い都の夕暮れをほっつき歩きはしたものの、宮古駅も北国の駅らしく暖かい待合室があり、黒字化に向けたリアス鉄道の熱い志も垣間見えたりする。

 やがて、とっぷり日も暮れた頃に久慈を目指す列車がやって来た。残念なことだが、すでに触れた通り北リアス線は、トンネル区間が多く、沿線にも大きな町がないため、日が暮れるとトンネルの中なのか外なのかよくわからない真っ暗な中を走り続けるばかりになる。先に話題に上せた田老の町も同じような様子で、同地の今がどのようになっているのかもさっぱりわからない。ただ、遠くの方に小さく街明かりが見える。聞くところによると、田老駅が直接津波被害を被ることはなかったが、駅舎の建物は倒壊を免れなかったため、後に撤去され、今ではホームがあるだけの無人駅になってしまったのだそうだ。それを受けてか、半年ほど後に、近い場所に新田老駅が開業するのだという。未訪駅が新たに発生するということは、岩手県コンプリートが遠ざかるが、どのみち岩手県制覇のためには釜石線と山田線、そして岩泉線とかいう廃線を取らなければならないので、この地域への再訪は避けられない。なお、岩泉線の一部駅は、接待駅~岩泉小本駅区間からレーダーを使い取っておいた。もはや現地に建物が現存しない廃駅ならば、現地に行かずアイテムで片を付けたとて、何も心にわだかまるものがない。

 20時ちょうど、北リアス線は久慈駅に到着した。駅に着くと「ようこそ不思議の国の北リアスへ」とあった。このセンスは評価したいところだが、北リアスは言うほどリアスでないところだけは残念なのと、北リアス線が発展的解消を遂げた後もこのキャッチコピーを使い続けるのかどうかは気がかりなところだ。

画像 ところで、この旅路の間中、一世を風靡した朝ドラ「あまちゃん」の舞台が、宮古だったか釜石だったか、それとも久慈だったか、わからなくて悶々としたのだけれど、久慈駅に着いたら未だ「あまちゃん」を引きずっていたので、すぐにここが「あまちゃん」の聖地なのだと分かった。それにしても、「あまちゃん」は2013年の作品なのだそうである。5年以上もその余韻が残り続けているのには感心したが、でもまあ小淵沢も結構遅い時期まで大河ドラマの方の武田信玄を引っ張っていたので、天下のNHKのドラマで当たりを引くことのインパクトの大きさのようなものに感じ入る。

 久慈から先も、沿線の様子は大きくは変わらない。相変わらず暗いところを走ってるなという感じである。ただ、JRに属する八戸線に乗り換えたこともあって、駅間距離が延び、心なしか走行速度も上がったような気がする。八戸まではなお1時間半以上もかかるが、やはりスピード感があるかないかは重要である。車内には思ったより多くの人が乗っているのにも心を強くした。青森県も結構広い県だが、たぶん中心的な都市というと、青森市、弘前市、そして八戸市といったところなのだろう。その一画を担う町に向かっているので乗客が多くてもそんなに不思議ではないのかもしれない。ただ、残念なことに、今日の宿りとするのは八戸駅前の東横インである。以前の青森旅行の際に拠点にしたこともあるホテルだ。別に普通の東横インなので、全幅の信頼を寄せて再度宿泊するとかそういうわけではないのだけれど、明日の行動を考慮すると八戸線の終点にして青い森鉄道に接続する八戸駅前に宿を取った方が都合が良かった。八戸駅は東北新幹線の停車駅でもあるけれど、八戸の中心部というわけでもないので曲者である。八戸の街中を目指すのであれば、二駅手前の下八戸駅が最寄である。八戸駅前は、古くからの市街ではないけれどターミナル駅の周辺ではあるという地域にありがちな空気を醸し出しており、ホテルやレンタカー店はあるけれど、飲食店すらまばらという街並みを形成している。比較的発展している東側がこんな調子だが、西側はまだ造成中といった様子なのかもしれない。宿周辺の街並みからこの地域の古い歴史を感じ取れないのは、やはり残念なのだ。

 22時を間近にして、八戸駅に降り立った。駅前に出てみても、何となく記憶にあるのとほとんど変わってない様子である。こちら側の出口には、もはや大きな発展を望むほどの伸びしろはないということだろうか。飲食店がほとんどないというようなことを書いたが、千年の宴くらいならある。出張族を当て込んでいるのか、少なからず青森カラーを出した料理を出しているようだが、いずれにしてもアルコールありきのメニューを出すような店なので、この際用はない。となると、その近所にあるローソンだけが頼りになるので、ここでカップ麺を買ってホテルに転がり込んだ。明日からは、青森制覇に向けて県内を駆けずり回ることになる。問題は、アイテムでもどうしようもない目時~八戸間の青い森鉄道をいかにしてクリアするかという点にある。ここを取れるか否かで、今回の旅のうちに青森県コンプリートを達成できるかどうかという話になってくるが、この問題については追って結論を出すことにしよう。

つづく

8年目の春に・その2

画像 気仙沼駅から先は大船渡線に入る。一関から気仙沼までの間の大船渡線は、普通に線路が現存している。前回の旅ではこのルートをたどったのだが、とどのつまり気仙沼から先はBRT化しているので、今回の旅においては気仙沼駅でバスからバスに乗り換える形となる。ちなみに、バスだろうと何だろうと、JRの鉄道路線と言う位置付けに変わりはないため、普通に18きっぷを使って乗り継ぐことができる。

 前にこの地に来た時、気仙沼駅から先に線路が存在していないのを目の当たりにして、大災害の跡に飛び込んだのを感じたものだったが、実際のところはそれすらも甘かった。三陸地域の国道等の幹線道路では、至る所に過去の津波浸水行きを示す標識が建っている。未来永劫、それより高いところに津波が来ないことを意味するものではないが、少なくともその高さにまでは津波が到達しうることを示すものだ。その有様に、何となく禍々しいものを予感したのを覚えているが、本当の惨禍は何度かそうした光景を目撃した後に控えていた。片隅に奇跡の一本松が残された、世が世なら陸前高田の中心部だっただろう地域には、今では震災遺構と呼ばれるようになった廃墟がわずかに存在する以外には、ほとんど何もなかった。見ようによっては大規模な区画整理でも行われているかのような、一面土がむき出しになった平地の風景は、2年ほどの間をおいて再訪してみても、想像以上に何も変わっていなかった。建造物がほとんど増えていないのは間違いないのでそのような印象を持ったのだが、あるいはかさ上げなどの土木工事は進んでいるのかもしれないし、過去には見当たらなかった防潮堤のようなものも目に付いたので、復興のとよみは聞こえ始めているのだろう。しかし、その進捗の遅さにショックを受けたことは否めない。一方、海からある程度離れた高台上には、かつて波にのまれた病院が移転していたりといった様子は見て取れたので、街並み再興のペースは一律でないらしい。

画像 盛(さかり)駅に到着した。JRの駅舎が現存するとともに、三陸鉄道の駅が隣接して建てられている。ここから先はしばらく三陸鉄道に乗って進む。三陸鉄道南リアス線である。駅同士が直通の構造にもなっているが、切符を買うために一度外に出て、三陸鉄道の駅に入りなおした。ともにコンパクトな駅だけれど、スタイリッシュにまとめて来ているJRの駅に対し、三陸鉄道側は学芸会のような賑やかさを感じさせる装飾が施されている。駅舎建物自体は昔からの小さなもののようで、中に入ると売店と旅客扱いの窓口があり、寒い地域らしくストーブの焚かれた待合スペースがあった。そして、その傍らに券売機。窓口は留守がちだが、切符はこの券売機で買えるらしい。

 券売機にあるボタンのうち、もっとも遠い駅である久慈駅のボタンを押す。しかし反応がない。4000円以上というかなり高額の運賃におののき、何度も往復運賃の間違いではないかと思いながら、それでも所要と思われる金額を投入したが駄目だった。実はこの旅の計画段階では知らなかったほどなのだけれど、三陸沿線の鉄道路線のうち、もともとJRが運行させていた山田線の一部、釜石‐宮古間が、三陸鉄道に移管されるのだという。その期日は3月23日。これにより盛-久慈間163kmが4時間半ほどで結ばれるようになるのだという。どうやらこの券売機はそれを見据えて設置されたもので、まだその機能のすべてを使えるようになっているのではないようだった。現在は、三陸鉄道南リアス線、JR山田線(不通区間のためバス移動)、三陸鉄道北リアス線と移動することになるのはわかっていたのだけれど、それでも移行期間か何かで通し切符が買えるのかと期待したのが甘かった。ちなみに、3月23日以降この区間は三陸鉄道リアス線として運行される。駅メモのデータ上は、すでに新体制が並行導入されており、南北リアス線と山田線のほかに、すでにリアス線が存在しており、さらに三セク化に伴い新規に設置される駅の情報も登録されている。

画像 そんなちょっとしたトラブルもありながら、当面の目的地である釜石までのきっぷを買おうとすると、これは問題なく購入できた。ある程度余裕があるはずの乗り換え時間だったけれど、もたもたしていたらだいぶん心細い感じになってきたので、急いでホームに向かう。すると、ホームに待っていたのは観光仕様のおしゃれ列車だった。乗車券だけの民が乗ってはいけない感じのやつである。クウェートが云々とも書かれているので、同国の王様か何かから寄贈された列車なのかもしれない。見ると、後ろの方になんて事のない通常仕様の車両も連結されていたのでそちらに乗ろうとしたら、そちらは一般の乗客が乗れない扱いになっているらしい。回送列車を一緒に引っ張って行こうということなのだろうか。

 というわけで豪華列車の方に戻ったのだけれど、小綺麗な内装は良いのだが、ほぼ全席対面式のボックス席であるのに加え、各ボックスにテーブルが設置されていて、何となく見ず知らず同士が向かい合うのに気を使いそうな状態である。そしてそんな列車の大半の席が、明らかに地元民と思われるおじいちゃんおばあちゃんや高校生によって占拠されていた。なんか今日はずっと列車やバスに乗っていた感じがするが、もう学生の下校時間になっているのか。

画像 旅情を誘うおしゃれ列車に乗りながら、車窓風景を眺めるのに非常に不利な隅っこの方で立ち乗り。あんまり車外の様子も印象に残らなかったのだけれど、道中、あまりにぶっ飛んだ名前に驚嘆したことのある恋し浜駅を通った。なんて事のない普通の駅だったが、海に近く眺めは良かった。どうやら駅名こそ恋し浜となっているけれど、地名としては小石浜だったのに何となく印象よさげな字をあてたものだということである。三陸海岸=リアス海岸のイメージで知られ、実際沿岸を走るこの鉄道もリアス線の名を背負っているけれど、現実にリアス式海岸となっているのは三陸海岸のうち南部地域だけなのだそうだ。北部は海岸段丘を形成している。たぶん、北リアス線に乗る頃には日も落ちているだろうし、大体、北リアス線はトンネルばかりになりそうな感じだが、ちょっとだけ、リアルリアスのクライマックスを見物した、ということにはなるのかもしれない。

 1時間ほどで釜石駅に到着した。移動距離のわりにえらく時間のかかる旅である。仙台からここまで約7時間弱。前谷地駅から本格的に北上を開始した時点からでも6時間あまりはかかっているような気がする。並行している東北本線に置き換えると、小牛田から花巻までの移動距離と同等と直感的だろうが、どう考えても2時間もあれば移動できる距離のような気がする。海岸線に沿うような線形なのでその点でもロスがあるのだろうし、BRTの鈍さに加え、乗り継ぎも多いので移動効率は良くないだろうと思っていたが、改めてその事実に向き合うと愕然とする。そして今日のゴールとなる八戸駅までは、なおも海岸線を進むつもりなので、さらにあと6時間ほどはこんな調子が続く。まあ、好き好んでやって来たので仕方がない。

画像 釜石駅前は、思っていたより栄えていた。たぶん私の旅では使わなそうな格式の高そうなホテル、フォルクローロが建っており、駅の真正面には新日鉄のでかい工場があるので、駅前が閑散としているというようなこともない。そんな様子がわかる国道283号上のバス停で、道の駅やまだ行のバスを待つ。ここから先、宮古駅まではまたしてもバス移動となるが、今回は一気に宮古まで行くことができない。途中、聞いたことのない道の駅でバスを乗り継がなければならない。実はここに不安を感じている。鉄道の乗り継ぎはよほど計画を見誤ることはないのだけれど、バスは日によって走っていたりいなかったりが顕著な差となるので、そこの見極めを失敗すると進退窮まる。今ならまだ、ここからJRで東北線沿線まで復帰できるが、道の駅まで進んでその先につながりませんでしたとなると、目も当てられない。不安は感じるが、ともかく道の駅やまだ行のバスは調べていた通りにやって来た。ここまで来たら、車上の人になるだけだ。幾分か古色を感じさせる岩手交通のバスに乗り、道の駅を目指すことになった。

つづく