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zoom RSS 敲いて、叩いて、山本勘助

<<   作成日時 : 2006/08/17 22:33   >>

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 一般に武田信玄の軍師として知られる山本勘助は、その知名度とは裏腹に謎の多い人物でもある。一時は存在そのものが伝説なのではないかと疑われていたこともあったが、近年ではとりあえずそういう人物が実在していたらしいという事にはなっている。このようなややこしい事態を招いた原因は、勘助に関する記述が圧倒的に「甲陽軍鑑」に偏っていた事にある。同書は戦国甲斐武田氏を語る上で避けて通る事のできない資料であると同時に、単純な誤解(あるいは意図的な曲解)による記述が相当数埋蔵されていると見られるいわく付きの史料なのだ。今に伝わる勘助の大活躍のほとんどすべては、元を正すと「軍鑑」を下敷きにしたものと言われる。

 少し前にこちらで書いたとおり、盆休みの帰省時に勘助ゆかりの史跡を何箇所かめぐって来たので今回はそのレポート。後に手を加えるための敲きになるかもしれない。最初の予定では墓だけ見るつもりだったのだが、一応地元出身と言う事になっている人物なだけあり、よくよく探してみると近場に勘助がらみの史跡が三箇所ほどあることが分かった。

画像 もともと行く予定だったのが、愛知県豊川市牛久保町の長谷寺(読みは「ちょうこくじ」。「はせでら」にあらず)にある墓だ。ここにあるのは正確には勘助の遺髪を収めた「遺髪塚」なのだそうだ。一般に勘助は三河国牛久保の出身として知られているのだが、その牛久保にある長谷寺に出向いてみたところが、さにあらず、彼は八名郡賀茂村(豊橋市賀茂町)の地侍・山本藤七郎の三男であり、15歳の時に牛久保にあった牧野氏の家臣・大林勘左衛門貞次の養子となったと解説している。牧野氏は東三河一円に勢力を張り、今川氏の助力を得て西三河の松平清康(家康の祖父)らと争っていた。そういうこともあって勘助は今川氏にも縁があったと言えるわけだが、ここからイメージを膨らませて勘助に大仕事を与えたのが新田次郎である。大河ドラマ化もされた新田の小説「武田信玄」の中での勘助は、今川義元と信玄の間でダブルスパイとして働き、ついには信玄と信長の共謀による「桶狭間」を成功させた立役者として描かれている。さすがにこれはドラマでありフィクションであるのだけれど、考えてみれば「正史」の勘助は桶狭間の翌年には川中島に死す事になっているのだ。

 長谷寺に行った直後、中日新聞の東三河版(web版にリンク)に、来年の勘助・大河ドラマ化に向けて鼻息も荒い豊橋市賀茂町の様子が紹介されていた。何でも、賀茂町内にある山本勘助生誕の地と墓(ここにもか!)に案内看板を設置したのだが、現物があまりに入り組んだ路地の奥にもあるために、訪問者には「分かりにくい」と不評なのだそうだ。こういう形で記事になってしまうのがなんだか残念なのだが、そういうものがあるのならばいっちょ行ってみようという事になった。

画像 墓があるのは本願寺というお寺で、勘助の菩提寺だった。厭離浄土欣求穢土、名前だけ聞くとまるで真宗=一向宗のお寺のようだが(戦国時代の三河は北陸と並び称されるほどの門徒の多い地だった)、実際の宗派は曹洞宗とのことだ。過去に改宗したこともあったようだが、その歴史は戦国時代以前にも遡れるという古刹である。よくよく調べてみるとここにある墓は勘助本人の墓ではなく、勘助の父の墓なのだそうだ。墓石は風にさらされて磨耗し……というよりは削れてしまっているのだけれど、辛うじて「天正」と刻まれた墓銘を読み取る事ができる。その隣の隣には「道鬼居士」と刻まれた新しい墓石もある。「道鬼」は勘助出家後の名だと伝えられているから、これも勘助に縁のある墓なのだろうか。それにしてもこのお寺の墓地では「山本家之墓」がやたら目に付く。ここでお寺の奥さんの話を聞く機会があったが、実は奥さんはあまり勘助のことには詳しくなかったらしく、お寺を訪ねてくる勘助ファンの人から話を聞いているうちにずいぶん勘助のことに詳しくなったのだそうだ。同寺では8月20日に勘助のことをテーマにした講演会が開かれるという。

画像 勘助誕生の地の碑は、本願寺から200メートルほど離れた畑の一角にあった。碑に刻まれている文言は正確には「山本晴幸生誕地」であるが、これはこれで普通の石碑である。当地の解説によると、勘助は清和源氏の流れを汲む家の出身となるらしい。もともと駿河国富士郡に住んでいたのだが、ある時賀茂に移り住み、近くにある賀茂神社の神職をしたりしていたらしい。勘助は賀茂に移住してから四代目に当たるということである。生年月日は明応9年(1500)8月15日。幼名は源助。三男坊であるというのは長谷寺にあった説明と同じ。このあたりが「おらが村の勘助伝説」と言ったところだが、諸所のサイトに見られる勘助情報と比べてみてもかなり食い違う箇所があるのが、山本勘助と言う人物の謎を雄弁に物語っている気がする。現段階ではどれが正解ともズバリ言いにくいところではあるが、賀茂の解説は何となく小説ソースっぽく見えるところが心もとない。

 とりあえず、道がわかりにくいと言うのは事実である。近くを通る県道499号線から脇道に入るまでは良いが、そこから先の道順が実に分かりにくい。このあたりの道は車一台が通るのがやっとという程度の幅しかなく、道の両側を仕切る生垣も異様に背が高いため、まるで迷路のような独特の雰囲気の路地になっている。元来風の強い土地だったので防風林の意味合いがあったのと、川が近いので水害の時に家財道具が濁流に運び去られるのを防ぐ役割が期待されていたのだそうだ。

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墓ばっかり
 もうかれこれ半年ほど前になると思うが、山本勘助の生誕地のことについて書いた。勘助の生誕地には諸説あるが、有名なのは静岡県富士宮市説と愛知県豊川市牛久保(牛窪)である。この中の牛久保へ行った。牛久保説は「甲陽軍鑑」他いくつかの史書(それらのルーツをたどれば結局「軍鑑」にたどり着くのだろうけど)に由来する説らしいが、当の牛久保が「いえいえ、本当の出生地は豊橋市の賀茂町なんですよ」と説明しているのがいささかややこしい。伝え聞くところによれば、どうやら牛久保近傍に熱心な郷土史家がいて、地元出身と... ...続きを見る
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2007/02/25 20:34

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