8年目の春に・その6

さて、そんな感じで純粋な移動手段として注目した場合は使いにくい五能線だけれど、何となく旅情ありげな下馬評と、便利が悪くてもできるだけ乗車しなければならない思い出集めの旅、さらには前々から訪ねてみたいと思っていた太宰治の生家・斜陽館が方角的には五能線の沿線みたいなところに位置していることもあって、ついにこの五能線制覇に着手することにした。時刻表を調べてみても、芸備線あたりに比べればつけ入るすきもありそうだ。そこで考えた作戦はこうである。まず朝一番で弘前を発ち、五所川原駅から津軽鉄道に入って全線を取った後、金木まで戻って斜陽館を見学し、さらにもう一度五所川原まで引き返してそこから一気に五能線を回収するというものだ。五能線深浦駅で2時間近く待ち時間が発生するものの、備後落合で何時間も待つのを思えばずっと状況は良さそうである。
というわけで、またしても未明の起床。とりあえず、朝湯を使うが、その時、前夜の入浴時に見つけられなかった体洗い用のメッシュタオルが大浴場に備え付けられているのを見つけた。これがなかったので昨晩はおざなりな洗い方をしてしまったのだけれど、こういうものがあるならもう一度入念に体を洗わなければ。まったく、宿泊料金がそんなに高くはないので声高に不満は言わないが、こういうところが行き届かないがために評価を落とすのでは寂しいよなあなどと、実際声には出さなかったが心の中でぶつくさ言いながら一通り体を洗っていたら、思ったより時間を取られた。そして、出足が遅れた。五能線は思ったよか本数が走っていることはわかったが、実は津軽鉄道はかなり運行本数が少なく、斜陽館の見学と五能線走破を両立しようとするとこの早朝の出発となる。もしここで出遅れると、後の旅程に及ぼす影響は甚大。近場の旅行なら再チャレンジを期すこともできるのだけれど、青森くんだりまではホイホイこれるものではないので、弘前駅まで走ることになった。結果、体を洗った意味もあまりなくなってしまうような汗まみれの状態になってしまったのだけれど、駅についてみて走らなければならないほどに余裕がなかったわけではないことに気が付いた。

弘前は、北に接する五所川原方面以外の三方を山に囲まれた、盆地のような地形に位置している。おそらく気候も内陸性を呈するのだろう、残雪も少なからず目についたが、津軽鉄道沿線はさほどでもない。真っ白な雪原をロートルのローカル列車が走り抜けていくような様は想像すると、それなりに絵になりそうな気はするのだけれど、今日に限っては普通の田園地帯を走りぬけているといった感じである。元の予定では、金木で下車してそこから先の数駅はレーダーで片を付けるつもりでいたのだが、それだとどのみち金木で列車を降りてから丸々2時間以上の待ち時間が生じるので、終点の津軽中里駅まで行ってみた。津軽中里の駅前は、思っていたより民家が集まっており、辺境の地に運ばれた感はなかったし、実際、一緒に降りたおばあさんもいたので、ある程度需要のある駅なのだろう、しかし、駅周辺には時間をつぶせるようなものは見当たらず、すぐに折り返さなければ金木へ戻る足がなくなるので、ちょっとだけ駅の外に出た後は、そのまま乗ってきた列車に戻った。ちなみに、切符を買う場面は最後まで訪れなかったので、現金で精算した。路面電車みたいな運用の列車である。
金木町は、現在は五所川原市の一部となっているが、2005年度末までは町制を敷いていた。「東京喰種」の主人公が金木(カネキ)なので、文学青年だった金木に対し、高槻先生が太宰治の出身地である金木町のことに言及している場面もあったとおり、「かなぎまち」と読む。実は吉幾三氏の出身地でもあるらしく、だからというのでもないが、五所川原駅を別にすれば、沿線でもっとも開けた駅前となっている。
本州では最も北の県とはいえ、3月もなれば一応は春である。暖かいとまではいかないが、凍えるほどに寒くはないのが救いといったところだろうか。8時前の金木の町は、ひんやりとした空気には満ちているけれど、どちらかと言えば清冽と表現する方がふさわしい情感を醸していた。問題は、ここからなお一時間余り、することがないということだ。そこで、駅周辺の、たぶん旧金木町でも最も中心的な位置を占めていたと思われる一画を散策してみる。意外にも農村地帯ではなく、民家が立ち並んでいる。商店も、少なからずあるにはあるけれど、大規模なものはないし、零細で小ぢんまりとした店にはどこか元気がなく、無人となったらしいレンタルビデオ店に至っては朽ちるに任せていた。崩れ落ちたコンクリート製の庇の一部が道路上に転がっていたりして、結構危なっかしい。それでもその昔にはレンタルビデオ店があった辺りは、典型的な田舎町といったところだろうか。たぶん、それこそ太宰治の生きた時代、日本各地の町々の発達の度合いの差が、現在に比べて相対的に小さかっただろうころ、ここ金木の町はこの地域では大きな町といえたのだろう。幼少から少年期まで、太宰はこの街で資産家の息子として暮らし、近隣には彼が子供の頃にしばしば遊んだとされる寺社もあった。
そんなものを見つつ、金木の町をあっちへうろうろこっちへうろうろしているうちに、どうにか9時になった。斜陽館は金木の観光の核心部となっており、目の前には観光物産館もあるのだが、まずこちらの物産館が動き始めた。その様子の変化に気づいて斜陽館の方を見ると、入口の戸が開け放たれたのが見えた。いつもだと、こういう施設への一番乗りは何となく気おくれがするのだけれど、今日はそんなことも言ってられない。もう待つのには飽きた。


ひたすら移動し続けるばかりだった今回の旅の中で、初めて満足のいく観光ができたような気がする。金木町で長年の夢をかなえた後は、再び五能線に乗り換える。ただ、五能線側は津軽鉄道との乗り継ぎを考慮してくれてはいないため、ここでしばらくの待ち時間が生じる。できた時間は補給に充てるとともに、ちょっとだけ五所川原の町を歩いてみた。気になっていたのが立佞武多の館で、青森市にあるねぶたの家ワ・ラッセと言い、能登のキリコ会館と言い、私はこの種の祭り屋台の展示を行う施設が好きである。中に入ればさぞや楽しめたのだろうなとは思うのだが、そこまでの時間はなさそうだったので、そう言うものがあるというのを確認しただけに終わった。
つづく
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