8年目の春に・その6

画像 だいぶ前の紅白歌合戦だったと思うが、何とかいう名前の演歌歌手が、自分の持ち歌に「五能線」という歌があるのを話していた。青森県の五所川原と秋田県の能代を結ぶ路線だから五能線という、ありがちな名づけをされた路線ではあるけれど、歌の題材になるくらい風光明媚な路線らしいというのは印象に残り、地図でどこを走っているのか調べてみたことがある。結果、移動効率最優先で考えた場合はまず利用価値がない路線だと判断していた。青森県と秋田県の県境付近の日本海沿岸に用事がない限りは使う必要がなさそうだ。何しろ、青森・秋田間を普通に移動するだけなら奥羽本線を使った方がずっと早い。強いて言うなら、世界遺産となった白神山地の白神岳を目指すなら利用してみる価値もあるだろうかといった程度だ。ただし、観光路線としてはそれなりにメジャーらしく、リゾートしらかみなんていう全席指定の列車も走っているようである。ちなみに演歌の方の五能線の歌詞も気になって調べてみたのだけれど、ご当地ソングとしては弱く、五能線という路線名とセットで日本海の名が出てくる以外は、どうということのない失恋ソングだった。特に路線沿線の情景がうまく盛り込まれているというわけでもなさそうだった。

 さて、そんな感じで純粋な移動手段として注目した場合は使いにくい五能線だけれど、何となく旅情ありげな下馬評と、便利が悪くてもできるだけ乗車しなければならない思い出集めの旅、さらには前々から訪ねてみたいと思っていた太宰治の生家・斜陽館が方角的には五能線の沿線みたいなところに位置していることもあって、ついにこの五能線制覇に着手することにした。時刻表を調べてみても、芸備線あたりに比べればつけ入るすきもありそうだ。そこで考えた作戦はこうである。まず朝一番で弘前を発ち、五所川原駅から津軽鉄道に入って全線を取った後、金木まで戻って斜陽館を見学し、さらにもう一度五所川原まで引き返してそこから一気に五能線を回収するというものだ。五能線深浦駅で2時間近く待ち時間が発生するものの、備後落合で何時間も待つのを思えばずっと状況は良さそうである。

 というわけで、またしても未明の起床。とりあえず、朝湯を使うが、その時、前夜の入浴時に見つけられなかった体洗い用のメッシュタオルが大浴場に備え付けられているのを見つけた。これがなかったので昨晩はおざなりな洗い方をしてしまったのだけれど、こういうものがあるならもう一度入念に体を洗わなければ。まったく、宿泊料金がそんなに高くはないので声高に不満は言わないが、こういうところが行き届かないがために評価を落とすのでは寂しいよなあなどと、実際声には出さなかったが心の中でぶつくさ言いながら一通り体を洗っていたら、思ったより時間を取られた。そして、出足が遅れた。五能線は思ったよか本数が走っていることはわかったが、実は津軽鉄道はかなり運行本数が少なく、斜陽館の見学と五能線走破を両立しようとするとこの早朝の出発となる。もしここで出遅れると、後の旅程に及ぼす影響は甚大。近場の旅行なら再チャレンジを期すこともできるのだけれど、青森くんだりまではホイホイこれるものではないので、弘前駅まで走ることになった。結果、体を洗った意味もあまりなくなってしまうような汗まみれの状態になってしまったのだけれど、駅についてみて走らなければならないほどに余裕がなかったわけではないことに気が付いた。

画像 弘前から五所川原までは、直線距離で20㎞ほどである。そして斜陽館の開館は午前9時。にもかかわらず、6時前の弘前駅を出発するという理不尽。JRの五所川原駅に到着したのは6:24で、五能線の車内アナウンスによれば乗り換え時間があまりないので、そのまま津軽鉄道の列車が待つホームに進めというようなニュアンスのことを言っている。JRと五能線のホームの間には乗り換え改札がなく、システムが良くわからないのが不安になってくる。そして津軽鉄道にあてがわれたホームには、強烈に年代物の車両が待ち構えていた。いつぞやの大井川鐡道の列車に比べればだいぶ新しくは見えるが、遅くとも昭和末に造られた列車という感じである。そしてそこからさほど離れていないところに、半ば朽ちかけのようなさらに古い車両も。これは明らかに乗るためのものではないけれど、まるで時の流れから取り残されたかのようなその様子に、強烈なカルチャーショックを受ける。

 弘前は、北に接する五所川原方面以外の三方を山に囲まれた、盆地のような地形に位置している。おそらく気候も内陸性を呈するのだろう、残雪も少なからず目についたが、津軽鉄道沿線はさほどでもない。真っ白な雪原をロートルのローカル列車が走り抜けていくような様は想像すると、それなりに絵になりそうな気はするのだけれど、今日に限っては普通の田園地帯を走りぬけているといった感じである。元の予定では、金木で下車してそこから先の数駅はレーダーで片を付けるつもりでいたのだが、それだとどのみち金木で列車を降りてから丸々2時間以上の待ち時間が生じるので、終点の津軽中里駅まで行ってみた。津軽中里の駅前は、思っていたより民家が集まっており、辺境の地に運ばれた感はなかったし、実際、一緒に降りたおばあさんもいたので、ある程度需要のある駅なのだろう、しかし、駅周辺には時間をつぶせるようなものは見当たらず、すぐに折り返さなければ金木へ戻る足がなくなるので、ちょっとだけ駅の外に出た後は、そのまま乗ってきた列車に戻った。ちなみに、切符を買う場面は最後まで訪れなかったので、現金で精算した。路面電車みたいな運用の列車である。

 金木町は、現在は五所川原市の一部となっているが、2005年度末までは町制を敷いていた。「東京喰種」の主人公が金木(カネキ)なので、文学青年だった金木に対し、高槻先生が太宰治の出身地である金木町のことに言及している場面もあったとおり、「かなぎまち」と読む。実は吉幾三氏の出身地でもあるらしく、だからというのでもないが、五所川原駅を別にすれば、沿線でもっとも開けた駅前となっている。

 本州では最も北の県とはいえ、3月もなれば一応は春である。暖かいとまではいかないが、凍えるほどに寒くはないのが救いといったところだろうか。8時前の金木の町は、ひんやりとした空気には満ちているけれど、どちらかと言えば清冽と表現する方がふさわしい情感を醸していた。問題は、ここからなお一時間余り、することがないということだ。そこで、駅周辺の、たぶん旧金木町でも最も中心的な位置を占めていたと思われる一画を散策してみる。意外にも農村地帯ではなく、民家が立ち並んでいる。商店も、少なからずあるにはあるけれど、大規模なものはないし、零細で小ぢんまりとした店にはどこか元気がなく、無人となったらしいレンタルビデオ店に至っては朽ちるに任せていた。崩れ落ちたコンクリート製の庇の一部が道路上に転がっていたりして、結構危なっかしい。それでもその昔にはレンタルビデオ店があった辺りは、典型的な田舎町といったところだろうか。たぶん、それこそ太宰治の生きた時代、日本各地の町々の発達の度合いの差が、現在に比べて相対的に小さかっただろうころ、ここ金木の町はこの地域では大きな町といえたのだろう。幼少から少年期まで、太宰はこの街で資産家の息子として暮らし、近隣には彼が子供の頃にしばしば遊んだとされる寺社もあった。

 そんなものを見つつ、金木の町をあっちへうろうろこっちへうろうろしているうちに、どうにか9時になった。斜陽館は金木の観光の核心部となっており、目の前には観光物産館もあるのだが、まずこちらの物産館が動き始めた。その様子の変化に気づいて斜陽館の方を見ると、入口の戸が開け放たれたのが見えた。いつもだと、こういう施設への一番乗りは何となく気おくれがするのだけれど、今日はそんなことも言ってられない。もう待つのには飽きた。

画像 斜陽館は、通りに面している部分だけ見てもかなり立派な建物であることがわかるが、奥行きの深さも見て取れ、いかにも、太宰が自嘲気味に言うところの素封家が暮らしそうな住まいという感じがする。太宰治の作品のうち、まともに読んだことがあるのは国語の教科書に載っていた「富嶽百景」くらいのものなのだが、一般には「斜陽」がもっとも有名な一編のうちの一つなのだろう。もともと斜陽という言葉には夕暮れ時の日差し程度の意味しかないのだと思うが、太宰が没落していく名家、つまりは戦中・戦後と時を経る中で権勢に陰りが見えた生家をモチーフとした小説の題名にこの言葉を用いたために、勢いに衰えが現れたことの慣用表現として人口に膾炙されるようになった。ところがこの斜陽館は、なかなかどうして立派なもののようだ。もっとも、作家の感性は入れ物だけが無暗に立派で内実が伴わないことに寂寥感を覚えたのかもしれないが。

画像 この斜陽館、現在は国の重要文化財となっているが、戦後間もない昭和25年から平成の初めまで旅館として使われており、太宰治ファンの宿泊客も多く訪れたのだという。ただ、もともと観光資源や宿泊需要が多いとは言えない地域だったためか、廃業の憂き目を見、その際に金木町が建物を買い取ったのだそうである。現在、斜陽館の経営が潤っているのかどうかは良くわからないが、この金木町の判断は慧眼だったというのかなという気がする。豪壮な邸内の様子には見ごたえがあり、未来に渡って残すに値するものなのだと思う。別に太宰治の熱心な読者というわけでもない、軽薄な観光客にとってありがたいのは、邸内の大半の場所の撮影が許されていることで、観光施設としても非常に良心的という気がする。幸か不幸か、館内に私以外の客の姿はなく、気候のせいもあって何となく寒々しさを覚えないでもなかったが、この際落ち着いて建物の中を見学できたのは良かったことだとしておこう。「人間失格」は暗そうだし、「斜陽」も重めなのだろうが、「津軽」くらいは事前に読んだうえでここにやってくればよかったかなあと、軽く後悔したりもした。ちなみに、豪邸の建築様式自体も印象に残ったが、特に印象深かったのは、太宰が子供の頃に勉強部屋としていた部屋の襖に書かれた漢詩の一部、「斜陽」の二文字だった。

 ひたすら移動し続けるばかりだった今回の旅の中で、初めて満足のいく観光ができたような気がする。金木町で長年の夢をかなえた後は、再び五能線に乗り換える。ただ、五能線側は津軽鉄道との乗り継ぎを考慮してくれてはいないため、ここでしばらくの待ち時間が生じる。できた時間は補給に充てるとともに、ちょっとだけ五所川原の町を歩いてみた。気になっていたのが立佞武多の館で、青森市にあるねぶたの家ワ・ラッセと言い、能登のキリコ会館と言い、私はこの種の祭り屋台の展示を行う施設が好きである。中に入ればさぞや楽しめたのだろうなとは思うのだが、そこまでの時間はなさそうだったので、そう言うものがあるというのを確認しただけに終わった。

つづく

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  • 8年目の春に・その5

    Excerpt:  昨日は、ぐっすりとは眠れない夜行バスでの旅が終わるや否や、一日に渡る移動を続けた。今日は今日で、朝一番から動き出している。当然、眠い。ようやく走り出した津軽線の窓の向こうに見える風景は、目を見張るほ.. Weblog: ディープ・ダンジョン~夕庵~ racked: 2019-04-14 09:43