OKINAWAの世界

 沖縄旅行2日目は、朝の6時半から行動を開始した。昨日の日没が遅かったことからおよそ予想はついていたが、南国の沖縄は日の出も遅い。名古屋よりは赤道に近いので、若干は日照時間が長くなるのではないかと思ったのだが、6時半でも外はまだ暗かった。7時になる頃でも、まだ空は薄暗かった。天気のせいもあるのだろう。

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 まずは美栄橋駅まで歩いて、そこからゆいレールを使って旭橋駅まで移動する。この辺りはその昔、鉄道駅である那覇駅があったところだという。沖縄の鉄道網は、沖縄戦の際に破壊され、以後ゆいレールの開業まで、沖縄県は鉄道の存在しない県だった。それでもこの地が沖縄本島の交通の要衝だったことには変わりがなかったようで、鉄道駅がなくなっても跡地に那覇バスターミナルができた。このバスターミナルが近年面目を一新し、2018年中に新バスターミナルが開業した。前回私がこの地に来たときは、まだその新バスターミナルの工事中だったはずだが、今日旭橋駅に降り立つと、目の前に巨大なビルが完成している。ターミナルの機能があるのは地上部分だが、近隣に存在するビルは相互に連結しており、カフーナ旭橋という再開発ビルとなっているらしい。ビルの近くの路傍には、発掘された古代遺跡のような那覇駅の遺構が保存されている。

 今日最初に目指すのは、本当最南部の喜屋武岬近くにある具志川城跡。ここで昨日買った沖縄路線バス周遊パスの出番となる。最寄りのバス停は、港の名と同じ喜屋武バスということになる。琉球バスのバス停だが、残念ながら那覇から乗り換えなしでたどり着くことはできない。一度糸満バスターミナルまで進んだ上で、再度乗り換える必要はある。そもそもこのバス停まで行くバスの本数が限られる上、城跡まではなお2~3kmほどはあるという片田舎のバス停ではあるけれど、それでもこの喜屋武バス停まで行くこと自体が難しいと思っていたことがあったので、昨夜最後の乗り継ぎ確認をしていて喜屋武行のバスがあることを見つけられたのは幸いだった。

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 というわけで、午前7時前の那覇バスターミナルでバスを待つに至ったのだが、ターミナルの結構立派な待合室に、バス待ちと思しき客の数は少ない。そして私の視線は、閑散とした待合室の一画にいた一匹のシーサーにくぎ付けになった。近づいて見てみると、どうもバスの乗り継ぎを案内してくれるロボのようだ。タッチパネルによる操作に対応しているほか、4か国語を使いこなせる賢いやつらしい。かのキングシーサーは、ゴジラに似せたロボと戦って煮え湯を飲まされたが、最近ではシーサー自体がロボットになるところまで来ている。そんな具合でここぞという時に頼りになりそうなロボだけれど、私の目指す先がマニアックすぎるせいか、はかばかしい検索結果は得られなかった。美ら海水族館とか、ありふれた観光地に行こうという場合には手堅く案内してくれた上、検索結果を印刷できるような親切設計になっているのに感心したものの、私の旅路に導を示してくれなかったのには、何となく不安を覚える。

 それでもまあ、とりあえずは、私が乗ろうとしたバスはやってきた。勇んでバスに乗りこんだ。乗り込んだが、どうもバスは、ターミナルの少し南側地域をぐるぐる回った後でもう一度ターミナルに戻ってきて、そこからようやく、奥武山公園や小禄の方を経て南の糸満を目指して再出発した。バスの車内はさほど混んでもおらず、あまり早くから張り切って出て来ることもなかったなと思った。

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 最初に那覇バスターミナルを出発してから、50分ほどもかかっただろうか。糸満バスターミナルに到着した。一応バスターミナルを主張しているが、バス展開用の広い駐車場を備えた、年季の入ったバス会社の営業所と言われた方がしっくりくる。一応、ここを起終点にしている路線は少なくなさそうだが、那覇のターミナルとはずいぶん雰囲気が違い、待合室のようなものはない。暖かい沖縄なので、屋外でも寒さに震えることなくバスを待つことはできた。そこから喜屋武のバス停まではさらに10分余りの道のりだった。

 バスを降りると、そこは典型的な沖縄の田舎だった。岬の方に向かって歩いていくと、少しの間は民家が立ち並んでいたけれど、そこも過ぎると「さとうきび畑」の歌詞そのまんまみたいな、畑の真ん中を一本道が伸びていくような景観に変わった。そして畑の向こうには海。強いて言うなら、畑に植えられているのが明らかにさとうきびでないあたりは歌と違うが、何となく沖縄っぽい農村地帯の風景。昨日に引き続き、沖縄地方の気温は高く、歩いていくうちに汗が流れ出してくる。先ほど見かけた道案内によれば、具志川城までの距離は1kmあまり。歩き続けて20分ほどか。そんなことを考えながら歩いていたら、ふと行きずりの軽自動車が私の横に止まった。運転席にはおじいちゃんが乗っていて、開けられたままの助手席の窓から声をかけられた。

 ………………。

 何を言われているのかわからない。「笑ってコラえて!」なんかのバラエティ番組で、田舎の老人の話している言葉を記号の羅列で表現しているのをよく見かけるが、まさにあんな状態。おじいちゃんは何度も話しかけてくれるが、その度、話している声が私の中で意味を持った響きにならない。希望的観測によれば、田舎道を見慣れない中年が歩いているので目的地まで乗せて行ってやろうと言いう展開になりかけているような気がしないでもないが、どうしてもそのように聞こえない。私も困ったが、おじいちゃんも言葉に窮したらしく、最後に「観光か?」と言った。そこだけ聞き取れたので「はい」と答えたら、会話はそれで終わった。世の中では本当にこういうことが起こるのだなあと思った。
 
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 喜屋武岬の近くの具志川城とは言ったが、実際には具志川城の方が1㎞ほど喜屋武の集落寄りにある。城跡とされるところの入口付近の駐車場には十台余りの車が止まっていて、一瞬、意外に人気の観光地なのかなあと思った。一応、観光ガイドでも扱いは大きくないながら名前が挙がるような場所だし、海に面して残る城跡は、なかなか似風光明媚である。が、城跡を散策していて気が付いたのだけれど、この辺りの海はサーファーが集まる海でもあるらしく、駐車スペースにあった車は城への訪問者の車ではなく、サーファーの車が大半らしかった。

 例によって具志川城の来歴は詳しくないが、城跡にあった解説板によれば、「発掘調査で得られた遺物により、12世紀後半から15世紀中ごろまで利用されていたことがわかりました」とある。誰の城だったのかについては触れられていない。沖縄本島に割拠した三山の主要城郭ほどにはメジャーでないことは間違いなさそうで、城の主もビッグネームではなかったということなのだろう。wikipediaで調べてみたところだと、「久米島の具志川城城主・真金声(まかねごえ、まかねくい)按司が、伊敷索(いしきなわ)按司の二男・真仁古樽(まにくたる)按司に攻められて、本島のこの地に逃れ、同名の具志川城を築いたと伝承されている」となっている。按司という位階こそ記憶にあるが、人名はもちろん全くなじみがない。ここに見られる登場人物は、護佐丸按司なんかよりはだいぶマイナーな人々なのだろう。

 背景の良くわからない具志川城ではあるけれど、なるほど、今も残る石垣の向こうに太平洋の海原が広がるさまは、とても絵になる。これで空が青空だったら一層映えただろうが、刷毛ではいたような雲が空一面に広がっていて、今日に限ってはそこまで圧倒的な美観というほどにはならなかった。しかしまあ、それはこの際どうでも良いかと言う気分になった。現存している石垣の中には、沖縄の他の城で見られるようなアーチ構造が見られず、決して技巧的とも言えない。日本の戦国山城に見られる野面積みの石垣と似たような技術水準の、どちらかと言えば素朴なもので、規模も小さな小城レベルにとどまっているが、それらが海に面して残っている姿には、兵どもが夢の跡という言葉がしっくり来る。この城跡は、何百年と変わらず、こうしてこの海を見下ろしてきたのだろう。

 具志川城を引き上げ、喜屋武よりもかなり糸満市街寄りの小波蔵のバス停まで移動した。ようやくバス停に着いた頃、ぽつぽつと小雨が降り始めていた。どうやら今日の天気は、この後悪化の一途をたどるばかりらしい。一応、今日もっとも長時間にわたって屋外行動をするタイミングをやり過ごせたことに安堵する。次に目指すのは平和祈念資料館だ。

 先ほどごく近くまで行った喜屋武岬には、スーサイドクリフと呼ばれた過去がある。また、平和祈念資料館への道すがらには、かのひめゆりの塔もある。沖縄本島南部には、沖縄戦の惨禍を伝える史跡が特に多い。旧日本軍において、沖縄戦究極の目標は本土決戦のための時間稼ぎにあったと言われている。那覇方面での戦闘に敗れた日本軍は、なお戦いを長期化させるため、本当の南部を目指し、住民を巻き添えにしつつ落ち延びていった。最後に追い詰められた人たちは、あるいは喜屋武岬から自ら身を投げ、あるいはひめゆりの塔の建つ陸軍病院第三外科壕の例にみられるよう米軍からの攻撃で死亡した。そして、摩文仁の司令部壕で日本軍の司令官であった牛島満中将が自決したことにより、沖縄における組織的戦闘は終結した。摩文仁の丘には現在、平和祈念公園が造られ、その一画に平和祈念資料館が建っている。初めてやってくる施設ではないけれど、もう一度沖縄戦の記憶を新たにしたいと思い、やってきた。最寄りのバス停でバスを降りると、車外にはまるで涙雨を思わせる雨が降っていた。

 約3年ぶりで訪ねる平和祈念資料館の内部は、良くも悪くも前回訪ねたときからさほどに変わっていないように思えた。それだけに、新鮮な感動という意味では前回にかなうものではなかったのかもしれない。というより、記憶の限りではもっと血なまぐさいような展示が多いように思っていたのだが、もしかするとより戦争の悲惨さを伝えてくるのは、同じタイミングで訪ねたひめゆりの塔の方だったのだろうか。

 今回は淡々と館内を見学した後、薄暗い展示室から外の光の指すロビーに出た。雨はいよいよ本降りとなっていて、窓の向こうの海原は白く煙っている。それどころか、風まで出てきているらしく、屋外に出てみると庇の下にいても霧のような細かい雨が顔にかかってくる。

 平和祈念公園は、広大な公園である。園内には数多くの慰霊碑があるほか、先に触れた司令部壕の跡もある。ただ、いかんせん平和祈念資料館からですらかなりの距離がある。天気が良ければ見学していくつもりでいたけれど、しぶくような雨の中を、それらの霊域まで歩いていくとびしょ濡れになってしまいそうだ。次があるかどうかははっきりとした予感もないが、今日のところはこのまま早々にバス停へ移動し、次の目的地を目指そうと思った。ただ、雨除けに使うつもりでいたバス停近くの東屋も、強い風に流される雨の前には無力に等しかったので、向かいにあった潰れてしまったドライブインの脇のガジュマルらしき木の下に退避して次のバスを待った。

 最後に向かうのは、私の旅行では珍しくテーマパーク。その名も沖縄ワールドという。多少寄り道はあるが、今日訪ね歩いた三か所はすべて同じバス路線に属しており、比較的効率よく移動できる経路となっている。沖縄ワールドはその終点に位置しており、バス停で言うと玉泉洞駐車場で下車することになる。沖縄ワールド前とかではなく、玉泉洞前でもなく、駐車場という名前なのが不思議なところだ。ちなみに、この路線から外れる形になる関係で、気にはなっている知念城は今回の旅の中では諦めることにしたし、沖縄ワールドから歩けない距離ではないかなと思っていた糸数城も、悪天候のため諦めることにした。問題は後者で、当初あった予定を一つキャンセルしたことで時間を持て余すことになりそうな気がするが、沖縄ワールドの様子を見てから考えるとする。

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 意外にも多くのバスや自動車で駐車場が満車になっているのにたじろぎながら、沖縄の世界に入門する。まずは小腹が空いているので昼食にしたい。幸い、園内に入ってすぐ土産物屋やレストランの他寓意が入った建物は見つけられたので、中を徘徊した。まず目についたのはわりかし規模の小さな、フードコートみたいな店。出て来るのは、ソーキそばなど定番の沖縄料理が中心のようである。キープして先に進むと、バイキング形式のレストランもあった。こちらは、種種の沖縄料理が出て来るらしい。値段は、いかにもバイキング料理の店と言ったところで、昼食としてはやや高めの設定となっている。それに負けないくらい食べるという選択肢もあるにはあるが、昼から大食いする気にもならなかったので、先に見つけた店でソーキそばのセットを食べた。

 さて、腹も膨れたところで園内を探索してみる。沖縄ワールドの目玉は二つあり、一つはバス停の名前にもなっていた玉泉洞。鍾乳洞である。もう一つは、沖縄の古民家を移築してきた琉球王国城下町。順路としては、まず玉泉洞に入って、地下から王国の反対側に回り込んで出入口側に戻ってくる形になるようだ。

 ということで、玉泉洞入口に向かう。結構な人の入りである。しばし待つ。この種の施設では間々ある商法だが、入洞時に写真を撮ってくれるらしい。良い写真が撮れたら、洞窟から出た後に購入できるという。問題はおっさん一人旅でも写真を撮るのかという点にある。ドキドキしながら審判の時を待つと、基本的に撮る・撮らないの選択肢は与えられない。もちろん、どうしてもいやだと言えば撮らずに済むのだとは思うが、何となく写真を撮る流れに。ハイ、シーサー。

 いよいよ、玉泉洞の本体に進んでいく。予想に反してかなり規模の大きな鍾乳洞のようだ。それは良いのだが、暑くて息苦しい。普通、鍾乳洞の中は涼しいものと相場が決まっているのだが、外の気温が下がってきているので相対的に暑くなっているということなのだろうか。当然のことながら、何もかも真っ暗で、そこそこ大荷物を背負って歩きまわっているので体も重いような気がする。精神と時の部屋か。

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 洞内の不快指数が高い以外は、まず満足できる感動のあった玉泉洞だけれど、有名どころの鍾乳洞に比べると、構造が比較的単調である。洞内通路が上下に延びるような、言い換えれば上へ下へと洞窟が伸びているようなところはほとんどなく、わりと素直にまっすぐに洞窟が続いていく。滝と言ったものもない。もちろん全く同じ景観が続くものでもないが、でも長丁場のわりに変化が乏しいかなという気がしないでもない。道中の青くライトアップされた泉が特に印象に残ったくらいだが、どうも水が青みがかっているのではなく、照明が青い、つまりは演出によるもののようだ。

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 汗がしたたり落ちるような温度と湿度に音を上げ、やや駆け足気味に20分ほどで洞窟を後にした。人いきれに中てられたところもあったのだろうか。なんだかもったいないような気もするが、暗い洞内に人が疎らという状態も、それはそれであまりゾッとしない。ままならないものである。もっとも、この旅の中で後にその状況の心細さを味わうことになるのだけれど、それはまた別の話。とりあえず、洞窟を出た後は城下町に向かった。が、こちらもなんだかコレジャナイ感がある。確かに沖縄の古民家を集めてきて集落のような形を形成しているのだけれど、基本的にすべての建物を売店として再利用しているらしく、デコレーションが過ぎるというのが率直に感じたところだった。要するに、無心に中を見学することができない。もちろん、入店すれば建物の中の様子もわかるのだけれど、最初から冷やかす気満々で店店を渡り歩く勇気は持てなかった。まあ、沖縄地方の民家はリトルワールドにもあったので、いつかそちらを見に行って沖縄を懐かしもうか。

 古民家というか売店を遠巻きに見ながら、出口の方へ順路をたどっていく。途中でシーサー展を見た以外は、スーッと出口の方に向かう感じ。要所要所で規模の大きな売店施設があるのはいかにも地方のテーマパークらしいが、淡々と歩くモードにスイッチが入ってしまったので、一つ失敗した。道中あったブクブク茶を飲めるお茶屋さんくらいは寄って行っても良かったのだけれど、そこも通り過ぎて園外に出てしまった。

 そこから、バスで那覇市内に戻った。来るときはぐるっと本島南部を経巡ったので、結構距離がある場所のように感じられたのだが、今回は直行路線である。多少の回り道はあっても、1時間とかけずに那覇バスターミナルに戻ってきた。そして予想通り、時間が余った。ちょっと行く当てが見当たらないので、とりあえずゆいレールに乗る。那覇空港駅からてだこ浦西駅まで乗り通す。車窓から、那覇の町を眺めながら次の行く先を考える。ホテルへのチェックイン前に沖縄の珍味を食べたりするにしても、もう一枚、時間を消化するスポットが足りない。いろいろ考えた結果、壺屋焼物博物館に行くことにした。本当は明日行くつもりでいたのだけれど。

 昨日行ったおきみゅーでも軽く触れられていたが、沖縄の焼物職人は、ある時首里城下の街に集められた。それが、現在まで続く壺屋という地名の起こりである。現在もやちむん通りというのがある種観光スポット化している。やちむんは沖縄の言葉で焼物を意味し、博物館はやちむん通りの入口みたいなところにある。牧志駅でゆいレールを降り、国際通りを西に向かって歩く。実は今日の宿が国際通り沿いのホテルなのでその下見と、夕飯の見当をつけるための行動だったが、食事場所についてはめぼしい店が見当たらなかったので、牧志公設市場の食堂に活路を見出すことにした。おかげでだいぶ遠回りすることになったが、平和通りの雑駁なアーケードをたどる。夜というにはいささか早い時間帯から酒盛りが始まっている辺り、文化が違うのだなあと思う。そして、開館時間を1時間ほど残した状態で博物館に到着。

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 街中の博物館なのでそんなに規模は大きくないのだけれど、館内にはこの地域で制作されるさまざまの焼物が展示されている。沖縄の焼物がどういったものか、これまで明確にイメージを持っていなかったが、展示を見ているとどことなく素朴な印象を受ける焼物が多い。信楽焼とか伊万里、九谷のように、素人目にも明らかな特徴というほどではないのだけれど、何となくそんな気がする。反面、素朴なだけのものかと言えばそうでもないから、なかなか評価は難しい。今でこそ、日本の一地方という立場に甘んじている沖縄ではあるけれど、壺屋の焼物町が興った近世以前、大陸に近い沖縄は中国などの技術を取り入れるに有利な立地だったと言えるし、一方で本土からの技術流入もあったようである。結果、先進的な技法も生まれたと解説されているので、鄙=素朴という短絡的な発想から、私の評も発生しているのかもしれない。

 20~30分ほど時間をつぶし、屋外に出る。まだ時間は早いが、とりあえず牧志公設市場に向かってみると、残念な事実が発覚した。どうも市場の建物の建て替えを行っているらしい。市場としての機能は仮設市場の方に移っているらしいが、案内に従ってそちらへ行ってみると、日曜は休みとある。私の夕食プランも一から考え直しになってしまった。グルガン族みたいな名前の魚を食べてみたかったのだが。そんな思いを断ち切れず、だいぶ薄暗くなってきた国際通りを西へ東へ歩きながら、適当な飯屋がないか、再度物色した。ステーキは昨日食べたので、とりあえず今日はパスである。それ以外で沖縄料理、できれば海鮮系が食べられる店と探してみる。もちろん、ないわけではないのだが、どこも居酒屋である。酒はいらないから飯だけ食べたいのだが、ことごとく酒を飲むことが前提の店。

 そして、耳元で悪魔がささやきだす。なんか、私の旅では食事はジャンクになる傾向がある。そういう飯でないと、旅をした気になれないという面さえある。一度その事実に向き合うと」、なんだか今日の夕飯はコンビニ飯出ないといけないような気がしてきた。幸い今日の泊りは普通のホテルである。と言ったところで、コンビニに行って食事を買い込み、夕飯問題に片を付けることにした。一応、沖縄らしくポークおにぎりとさんぴん茶を買った。

 今日の泊りは、国際通りの真ん中近くにあるホテル山の内。建物自体は大きく、結構目に付くのだが、同時にわりと年季が入っていることにも気づく。宿泊費を安くあげようとした結果なので、それは仕方がない。フロントに向かい、チェックインを済ませる。手続きの前後、フロントの人と簡単な哀話をする。特にビジネスホテルだと、事務的一辺倒な対応になることが多いのだけれど、ここはそうでもないらしい。「”一歩出れば国際通り” 内に入ればアットホーム…」というのがキャッチコピーになっているらしいが、確かにそういう雰囲気はある。建物内の共用設備も古めかしさを隠せないが、客室内は今風にリフォームされていて、部屋に憩う分には特に古臭さや不足を感じることはない。

 ポットでお湯を作り、おにぎりと一緒に買ってきたカップ焼きそばをすする。部屋の中にあった広告によれば、同じ建物の3階にはレストラン山の内というのもあるらしい。ざっと見たところ、夕食営業・朝食営業とも、沖縄の地域色を取り入れたそこそこいいものが食べられるようだ。夕食問題の解決を早まったかなと思った。

 食後、何となくネットを眺める。最初に、くだんのレストランを調べるところから始め、ホテルのホームページに行き当たった。予約については楽天トラベルから済ませていたので、このホームページの存在には気づかなかったのだが、自前のホームページではホテルの歴史について触れられていた。昭和の時代、沖縄でも片田舎と言って良いようなところから創業者夫妻が国際通り界隈にやって来て、商売を始めたこと。ある時、ホテル営業に乗り出したこと。今の建物は1970年代頃にはあったらしいこと。沖縄の本土返還と同じような時期からあったものと考えると、歴史の重みを感じる。今の経営者は3代目くらいになるようである。普通、あまりホテルの沿革について調べることはしないし、そもそもそう言うものが出て来ること自体が稀なのだけれど、こういう情報に触れると他人のような気がしなくなってくる。昨日のホテルのような破格値とまでは言わないが、値段の割には良いホテルだとも思う。できれば長く続いてほしいし、次の機会があればまた泊まろうかという気にもなってくる。

 そして、その流れで明日の目的地についての情報を調べる。旧海軍司令部壕。その名の通り沖縄戦の戦跡だが、ネットで見られる情報を見ていて、胸がざわつくような感覚を覚えた。

つづく

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