山登ってみよう【涸沢岳・中編】

 視界が狭いせいで、どの程度進んでいるのかもわからないが、20分ほどでハイマツカーブ(大して危険でもなさそうなのになぜか死亡事故が相次ぎ、ステップだのロープだのがどんどん設置されていったといういわくつきの箇所)、さらに30分で「ホタカ小ヤ20分」の表示にたどり着いた。ここから小屋まで20分ではたどり着けないんだよなあと思いながら、止みそうにない雨の中で暗闘を続け、30分余りで穂高岳山荘がある白出のコルにたどり着いた。残り数十メートルのところまで距離を詰めるに至って、ようやく小屋の輪郭が見えてくるような霧の濃さだった。ザイテンのように比較的明瞭なコースを歩いていたから良いようなものの、霧の怖さを思い知った。小屋への到着は14:02。これまた前回より30分ほど遅い。ただ、息も絶え絶えで到着した前回と違い、今回は余力もある。休憩を長めにとったおかげだろうか。

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 たいていの場合、前面にテラスを備えているような小屋だと宿泊客なんかがそこにたむろしているものなのだが、天気が天気なだけに、人っ子一人見当たらない。小屋の前には、木柵のようなものがロープでつながれ、置かれていた。利用客がソーシャルディスタンスを保って列を作るように用意されたものなのだと思うが、今日はその役目もお休みのようだ。ただ、そこに貼り出されていた掲示物に目が留まった。「宿泊のご案内」とある。

新型コロナウィルス対策のため、下記の流れでの受付をお願いします。

1.正面玄関横の記帳台にて、宿帳をお書きください
  全員の体温を測定し記入してください

2.代表者のみ山荘内に入り、受付を行ってください
  同行の方は外で待機をお願いします

3.受付が済みましたら、全員で山荘内へお入りください

雨天時
1.山荘内に入りましたら全員検温をお願いします
  (記帳台に非接触体温計あります)

2.代表の方が、記帳台にて宿帳を書き、受付を行ってください。全員の体温を記入してください。
  発熱のない同行の方は、乾燥室に上がって頂いても構いません
  アルコール消毒・マスク着用をお願いします


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 今日はまぎれもなく雨だ。見たところ、屋外に記帳台らしきものもないので中に入っても良いのだろう。単独行なので、同行云々も関係ないし、簡単なオペレーションだ。そう思って宿帳を書いたのだが、記帳台に置かれているはずの体温計が見当たらない。いくら探しても出てこなかったので、案内文の読み方がおかしかったのかと思い、一度外に出てもう一度同じ文章を眺めてみたが、やはり記帳台のところに体温計が置かれているように読める。が、いくら探しても見当たらないので、仕方なく受付で聞いてみたところ、自分で持参していないのかとの問いかけをされた。実は小屋のホームページで、体温計と消毒液、インナーシーツだとかの持参について言及されていたので、体温計も持ってきていたのだが、なじるような剣幕に気圧され、つい持ってきてないというような曖昧な返事をしてしまった。結果的に非接触型の体温計は出てきたのだけれど、完全に怒られ損である。しかしまあ、さっさと休みたかったので余計なことは言わず、体温を測った。35.2度。これで万が一熱があって追い返されたりしたら非常に辛い展開になっていたことは想像に難くないが、幸いなことに熱はないようだ。3時間余り、雨に打たれて歩いてきたおかげかもしれない。というか35度ちょっとなどは、逆に熱がなさすぎるのではないか。

 とにかく、受付は済んだ。今回通された部屋は、浅間山という部屋。忘れもしない、前回泊まったのと同じ部屋だ。単独客用の部屋なのだろうか。前に来たときは、部屋まで案内されたような気がするのだが、今回は完全セルフサービス。そして、部屋に入ってみると、明らかに前回とは様子が違う。床の上に述べられた布団と布団の間に、仕切りが入っている。私はロフト風二段スペースの下段をあてがわれたので、ロールカーテンみたいなので隣の区画と区切られていたが、平屋スペースの方は見るからに堅牢そうな木製の板で隣と仕切られている。特筆すべきはこの一区画の広さで、奥行きは当然布団一枚程度なのだが、幅はざっと布団一枚半弱程度あるように見える。つまり、山小屋であてがわれるパーソナルスペースとしては、異例とも言えるほどに広い。

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 これは良い。裏銀座縦走計画を練っていた頃、多くの小屋が軒並み要予約・定員減の方針を打ち出したことに悩まされたものだったが、いざ予約を取って潜り込めてしまうと、これはむしろ快適だ。ウィルスが生物の進化を促したとする学説もあるそうだが、社会構造(?)にもこうした変化をもたらしてくれるのなら、すべてが悪というわけではないのかもしれない。ちなみに、話は前後するのだけれど、夕食時にも同様の変化は見て取れ、これまでなら狭いスペースで小さくなりながら食事を摂っていたところが、かなり潤沢にスペースを使えるようになっていた。さらに世話好きおじさんやおばさんの仕切りでおひつや鍋からご飯・味噌汁が取り分けられるのが常態化していた食堂のシステムも、一人分のごはん、おかず、汁物がすでにセッティングされた状態でテーブルに並んでいた。対面に座った見ず知らずの客との間には仕切り板が置かれている。小屋の距離の近さが何となく苦手だった私のような者にとっては、これもむしろありがたかった。

 時を戻そう。とりあえず、濡れた装備品の一部を乾燥室に押し込んだりしたが、その後することがない。今回、これまでなら持ってくることのなかった装備が増えたため、絞る荷物もあった。典型的なところで、タブレットや書籍類がそうなのだが、暇をつぶす術がなくなった。当初の予定では、明日の空模様も睨みながら、奥穂にアタックをかけるか、涸沢岳をつまむかしているタイミングだったはずなのだが、空模様は全く改善していない。スマホをいじったり、お汁粉を食べたりして時間をつぶす。談話スペースに漫画とか本とかを置いてある小屋も珍しくなく、穂高岳山荘も過去そうだったような気がするのだが、探してみてもそれらしきものがなくなっていた。ついでに言えば、セルフサービスのコーヒーや紅茶もなくなっている。窓の外を見てみる。相変わらずホワイトアウトの光景だが、一人、二人と小屋に到着する登山者の様子を見ていると、本降りの雨ではなさそうだった。少しの思案の後、涸沢岳に行ってみることにした。

 涸沢岳は、穂高岳山荘のある白出のコルから見て、奥穂高の真反対に位置するピークだ。奥穂高と北穂高の間という位置からして、一応穂高連峰の一座に数えられるが、穂高シリーズの高峰で唯一、穂高の名を冠していない。穂高岳山荘から登った場合で、登り30分、下り20分程度で行ける位置関係にあると、地図に表記されている。奥穂高の至近にある目立たないピークであることから、単独でこの山に登ろうとする酔狂人はめったにいるとも思えず、奥穂のついでか、北穂から奥穂への縦走の途中で踏まれるくらいの山だ。ただ、標高は3110mを誇る。後になって調べてみたところ、日本第8位の高峰でもあるが、そういったところを全く喧伝しないあたり、実に奥ゆかしい。

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 アタックザックに最低限の荷物を突っ込み、雨が止んだタイミングを見計らって、涸沢岳に突撃した。ウエイトが軽くなったこと、1時間余り休憩して体力が回復、高所にも慣れてきた結果なのか、かなり軽快に登っていけたが、天気が崩れるのも早かった。雨は強さを増し、風も出てきた。涸沢岳周辺で難路とされるのは山頂から北穂寄りの区間であるとされてはいるものの、さすがにこの悪天だと身の危険も感じる。引き返そうかとも思ったが、いずれにせよ、ガスっているなりに山頂らしきものがすぐそこに見えているので、意を決して一気に勝負を決した。15:37、涸沢岳登頂。かなり狭い山頂だ。標柱が一本立っているが、これを正面からフレームに収めて撮影するのも厳しいほどの、痩せた尾根上の高まりと言った雰囲気である。標柱の背中側は、すっぱりと切れ落ちた崖になっているらしい。例によってその底は見えず、白一色の背景が広がっているだけだが、狭い視界の範囲に踊り場が全く見えないのが怖い。

 とにかく、長居は無用の雰囲気だ。証拠写真を一枚だけ撮って、さっさと撤退することにする。心のどこかで、北穂方面からの縦走者が現れることを望んでいたが、そんなこともなかった。蛮勇だったかもしれない。この調子だと、明日の奥穂アタックがどうなることか、思いやられた。

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つづく

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