山登ってみよう【三上山】

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 今は昔の平安時代、藤原秀郷という武人がいた。通称を俵藤太。妖魅の類を退治したという言い伝えで知られるが、史実上確かな事績というと、平将門を追討したのがこの人である。将門は、同時代の都人から人外とばかりに恐れられたので、これを討った秀郷が妖魔退治の豪傑と言われるようになったのかもしれない。そんな秀郷にまつわる最も有名な伝説が、近江国三上山の大ムカデ退治だと思われる。事の真偽はともかくとして、この三上山は実在しており、名神高速道路や新幹線の車窓からも望むことができる。近江富士の名でもって知られ、低山ながら綺麗な円錐形の山容をしている。

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 そんなわけで、何かと出撃機会の多い滋賀県の山の中でも、特に気になる一座が三上山だった。個人的に、遠方への旅は別として、京都に行った帰りは楽でコストパフォーマンスに優れる高速バスを使うことが多いから、三上山はいやでも目につくというものだ。暑い時期に登るには向かない低山である一方、冬場の滋賀県は降雪の心配もあるので。様子見を決め込んでいるうちに機会を逸し続けてきた。それが今回、ついに三上山に登ってみようということになった。

 三上山の最寄り駅は、東海道本線の野洲駅である。京都以西から走ってくる登りの新快速には、野洲駅が終点となっているものもあるので、駅の名自体は良く印象に残っているものの、乗り継ぎ以外でこの駅に降り立ったことはなく、まして改札外に出る日がやってこようなどとは思ってもみなかった。駅前からは路線バスが走っていて、三上山の登山口近くに向かう路線も設定されているという話だが、今日は山麓まで歩くことにする。ちなみに、バスに乗る場合は、山麓の御上神社を目指すとよいらしいので、まずは神社まで歩くことにした。

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 野洲市は決して大きな町ではないけれど、歴史は古く、市内には中山道が通っている。最近、東海自然歩道や熊野古道伊勢路が終わったら中山道に手を出したいと思っているので、何とはなしに旧中山道とされる道を眺めながら神社を目指した。中山道と交差するのはほんの一瞬、あとはなんていうこともない地方の街中を歩くこと30分ばかりで、まずは御上神社に着いた。想像していたよりは、広い境内を持つ神社で、なかなか雰囲気もある。近隣の人の崇敬を集めているだろうことがわかる。私が不勉強にして知らなかっただけで、本殿は鎌倉時代の建物、国宝にも指定されているのだそうだ。何はなくとも、無事に山を登り切ることができるようお参りした。

 と言ったところで、10時半に登山開始。何なら、神社の境内地から登山道が始まるくらいの様を想像していたら、入口はちょっとした住宅地のような一画から始まっていた。これまた意外なことに入口には獣害除けのゲートが設置されている。そして、「猪出没注意!!」の鬼気迫るイラスト。クマの脅威を煽る山は少なくないが、イノシシで脅かされるのは六甲山魚屋道以来で、何とも言い難いリアリティがある。

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 武骨なゲートに面くらいつつ始まった登山だったけれど、登山道は昔からのものと思われる石段が整備されてて、これこそ伝説の宿る地に相応しい。道中、「献香」と刻まれた石がぽつねんと置かれた広場もあったりして、信仰の息づく山だというのが伝わってくる。シダ植物の繁る登山道は、しかしよく手入れされていて歩きやすい。だからなのか、地元の人風の軽装登山者が多いのも特徴的だ。そんなに高い山でもないし、毎日登山で登っているような老人もいれば、神社に来たついでに登りましたみたいにカジュアルな服装の家族連れもいる。そして、トレイルランナー風の人々も。実に多種多様な登山者層の中にあっては、むしろ普通のハイカーの比率の方が低いのではないかとさえ思えてくる。

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 さほど難しい所のない三上山も、山頂近くになると岩場が卓越してきて、傾斜もいくらかきつくなってくる。そんな道すがら、「この先で合流 左楽・右急坂」という、やたら直截的な看板があった。せっかくだから俺は、この急坂を選ぶぜ。覚悟して急と言われる登り坂に挑みかかったものの、右に行っても左に行っても、骨の折れる度合いはそんなに変わらなかったのではないかと思った。べらぼうにきついわけではなく、楽とも言えない坂道。ただ、本当に急な部分には手すりが付けられている。単なるレクリエーション登山の対象として登山道が整備されているわけではないせいもあり、足腰に不安のある人の登山を想定しているのだろう。

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 11:06、432mの三上山山頂に到着。展望は、琵琶湖に面した一方向にのみ開けていて、眼下に野洲の街を見下ろせる。その向こうには、琵琶湖、そして比良の山並みも見渡せるはずのロケーションだが、この季節のわりには空気が澄んでいない。湖上にかかる濃い靄上に、辛うじて比良山地のスカイラインが見えるだけだ。今日の眺望はギリギリ及第点と言ったところだろうか。むしろ興味深いのは、御上神社奥社の前面にあるしめ縄を渡された岩の方だ。説明によれば奥津磐座と呼ばれる、神性を帯びた岩なのだという。三上山は、アマテラスの孫にあたる天之御影命(あめのみかげのみこと)が降臨した地だと言い伝えられている。そんな神聖な山に、山を七巻半する巨大なムカデが巣くったのはいったいどういった理由があったのか。いや、人知を超えた何かがあるから、神が降り立ち、大ムカデが宿った考えるべきなのか。

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 さて、今回参考にしたヤマケイの分県ガイドでは、三上山に登った後はそのまま隣の山に向かうコースが紹介されている。三上山単体だとごく短時間で登れてしまうので、そのようになっているのだと思われる。ただ、半分時間調整みたく興味のない山に登るのも気が進まない。ガイド本の内容を見ていると、一層その思いが強くなってくる。それならむしろ、山を下ったその足で俵藤太伝説の地を訪ねてみようという気になった。

 そもそも、秀郷が三上山のムカデを退治することになった経緯というのは次のようなものだ。以下、wikipediaからの引用である。

琵琶湖のそばの近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。大蛇は人に姿を変え、一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は強弓をつがえて射掛けたが、一の矢、二の矢は跳ね返されて通用せず、三本目の矢に唾をつけて射ると効を奏し、百足を倒した。礼として、米の尽きることのない俵や使っても尽きることのない巻絹などの宝物を贈られた。竜宮にも招かれ、赤銅の釣鐘も追贈され、これを三井寺(園城寺)に奉納した。


 まずは、藤太こと秀郷と、ムカデに苦しめられていた龍神が出会った場所である瀬田の唐橋に向かうことにする。この橋は、古くは東国から京に入るための交通の要衝に位置しており、上洛を志すも病に倒れた武田信玄は、甲斐国へと撤退する途次、余命いくばくもない混濁した意識の中、瀬田の橋に武田の旗を立てるよう家臣に命じたと言われている。

 瀬田の唐橋の最寄り駅は、京阪の唐橋前駅となる。JRの駅では石山駅が一番近い。そこでまずは、東海自然歩道歩行以来の訪問となる石山駅まで移動することにした。駅前に出ると、昔からの住人と思しき老夫婦が、「坂東の家がマンションになった」云々と言っているのが聞こえてきた。坂東というのは、あさま山荘事件で逮捕された連合赤軍のメンバーで、実家は石山駅前で旅館を経営していたという。それこそwikipediaにも載っているほどの情報なので、地元の人には語り草となっているのだろう。最近までこの旅館の建物はそのまま残されていて、googleストリートビューのタイムマシン機能を使えば、ごく当たり前に表示される。あさま山荘の頃から諸々の問題をクリアして土地が処分されるまで50年近くを要したということなのだろうか。その事実が重い。

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 唐橋までは、石山駅から歩いて15分ほどの距離である。さすがに今は、秀郷が龍神と出会った頃の旧情はとどめておらず、引っ切り無しに車の行き交う県道上の橋となっている。ただ、その意匠は唐橋と呼ばれた時代を受け継いでおり、近江八景の一つ勢多夕照に数えられた歴史ある橋としての矜持を保っている。現在、橋は中洲を仲介して大橋と小橋の二つに分かれており、この中洲部分に秀郷というか藤太の姿を象った陶器製の像が立っている。

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 そのまま今度は、京阪の電車に乗って三井寺まで移動した。前掲の通り、この古刹には秀郷が奉納した霊鐘が伝えられている。もちろんそれを見に行ったものだが、こちらは残念なことに常時公開されているものではなさそうだった。思い付きで行ったようなものなのでリサーチ不足が祟ったことは否定のしようもない。ただ、時にはこういう旅も悪くないなと思えたのは大きな収穫だった。

 最後に、この三上山登山のログを一応公開しておく。ただ、途中でGPSがおかしくなったため、累積標高や歩行距離はおよそ正確な数字となっているだろうが、その信頼度は参考記録程度のものとなってしまっている。
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