山登ってみよう【涸沢岳・前編】

 あ…ありのまま今起こった事を話すぜ!「おれは奥穂高を登っていたと思ったらいつのまにか涸沢岳を登っていた」。な…何を言っているのかわからねーと思うが、おれも何をされたのかわからなかった…。頭がどうにかなりそうだった…。道迷いだとか計画変更だとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…。

 いろいろ多難だった今年の夏山登山だが、ついに決行の時は来た。思えば、裏銀座がなくなり、針ノ木がなくなり、文字通り最後の砦となった奥穂高行き。豪雨災害から奇跡の復活を遂げた特急ワイドビューひだは、しかしまさかの遅延に見舞われた。高山では首の皮一枚のところで平湯温泉行のバスへの乗り継ぎを果たし、いきなり幸先の悪いスタートとなった。どうにか平湯入りは果たせたものの、高山駅近辺で物資を補給することもままならなかったため、今度は夕食の心配が出てきた。今年の場合、平湯の温泉街も静かで、夕食を食べられる場所もごくごく限られているような状態となっていた。夕飯抜きとなると、明朝食事を摂るチャンスも見込めないので、非常に辛い山行となる可能性があったが、宿で食事できるところを聞いたところ、平湯バスターミナルのちょい北にある店ならまだ営業しているのではないかということだった。何のことはない、温泉街の目抜き通りにあるので前々からその存在を知っていた店だったけれど、ここで景気づけに飛騨牛照り焼き丼を食べ、翌日に備えた。宿は、珍しく張り込んで近くの旅館の素泊まりコースを押さえていたので、やわらかい布団で翌早朝までぐっすり眠れた。ひたすらあわただしく、綱渡りとなった前泊までの顛末の中で、そこだけが救いだった。

 そして明くる朝。これまた豪雨災害だの新型コロナだのの影響で、平湯までの道のり同様走るかどうかやきもきしていた上高地行きのバスが、いつもの夏と同じように、午前5時に平湯バスターミナルにやって来た。少し前からやっていたターミナルの改修工事も終わり、町場のバスターミナル並みの建物を備えるようになっていたのだが、昨日19時が間近に迫る段階ですでに店じまいを終えていたので、今朝のバスに無事乗り込めるのか不安はあった。そこもどうにかクリアした。とにかく、出発までいろいろ不安が絶えない今年の山行ではあったが、終わってみれば特急の遅れ以外は例年同様にし遂げることができた。ここに来るだけで気疲れした。

 バスに乗り込む。例年通り密だった。いつのころからか濃飛バスの新穂高線・上高地線は観光バス仕様の車両を使うようになっているのだが、車両上部の窓を開けて換気に努めていた。早朝の山の空気がびゅうびゅうと吹き込んできて、寒いくらいだ。

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 というわけで、5:28に上高地バスターミナルに到着。簡単に身支度を済ませ、登山届を提出し、出発。昨日から今朝にかけて、名だたる天気予報サイトを一通り確認したところ、おおむねどのサイトも晴れ予報を出していた。てんくらがB判定を出して、ウキウキ気分に水を差してきたのもいつも通り。マウンテンウェザーフォーキャストが午後から雷雨のリスクを示してきたのも、まあ夏山ではよくあること。今回初めて検討対象に含めてみたscwだけが、明確に雨雲の存在を示唆してきたが、大過はないだろうと思っていた。が、上高地に着いてみると、結構雲が厚い。何となく嫌な感じである。河童橋まで進んでみても、穂高の峰さえ見通せない。まあ、今回のコースの核心となる涸沢まで進むのだって、あと5時間はかかる。それまでに天気も上向くだろうと思い、歩を進める。

 今年は上高地も厄年で、新型コロナは言うに及ばず、春先から小規模の群発地震が続き、さらに梅雨以降は豪雨にも祟られ、散策路が荒れ果てた。割と最近まで、梓川左岸の道は小梨平より奥が通行禁止になっていて、復興状況もあまりオープンにされていなかったので、これにもヒヤヒヤさせられたのだが、夏山シーズンに合わせてきたのだろう、割と最近になって通行禁止が解除された。どんなものだろうと思いながら歩いてみるも、特に通行の支障となるような箇所はない。部分的に、土砂崩れの痕跡が残っていたり以前と雰囲気が変わっている場所もあるにはあったが、横尾までの道を2時間10分で歩き通したので、いつも通りに歩ける状態だったと言って良いのだろう。

 奥穂高登山は、横尾大橋を渡るところからが本番だ。その前に、この際ありがたい自販機で、250円の缶コーヒーを買い、これから始まる正念場に向けて気合を入れる。天気は、良くない。本当にここから晴れることなんてあるのだろうか。そろそろ不安になってきたが、だからと言って簡単に取りやめられるような山行ではなかった。自販機以上にありがたいゴミ箱に、空になった缶を捨て、7:50、クライムオン。

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 この先、涸沢までは3時間程度の道のりだ。涸沢ヒュッテのホームページによると、一部区間で、増水した川の影響により登山道が流失したため迂回するよう記載されていたが、くだんの箇所の復旧も済んでいた。元通りの山道が返ってきたというより、ブルドーザーで整地したような、えらく人工的な道が100mほどに渡って造成されており、以前の登山道の成れの果ては、傍らの林の中にひねこびたように残されていた。一部、倒木も残されていたが、歩くのに著しい障害となるほどのものではないし、そのうち片づけられるのだろう。

 1年前に歩いた道。長丁場の山で、新鮮味のない道を歩くのは、性格的にちょっと苦手なのだけれど、今年は他に行く先がないような状態だったので贅沢は言えない。もう一つテンションが上がらないのに追い打ちをかけるように、雨が降り出してきた。まだ小雨程度だが、ますます意気が消沈していく。

 8:44、本谷橋に到着。大きな橋は以前と変わらずそこにあったが、小橋の方が見当たらなかった。今年は入山者が少ないと見て、架設されていないのだろうか。もともと、可搬式と思われる小さなものだったので、豪雨で流されたというわけでもないだろうが。

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 オールウェザージャケットでしのぎたいところだったけれど、本谷を過ぎたところでいよいよ雨足が強まってきた。やむなく、レインウェアとザックカバーを取り出し、完全防備で前に進む。前回の山行とは真逆に、涸沢より先で天気が上向く展開も期待していたのだが、10時半に涸沢ヒュッテについてみれば、そんなことは全然なかった。要するに、前回より圧倒的に状況が悪い。前回山行時の写真を引っ張り出してみると、同じような経過で涸沢に到着した時点では、奥穂や北穂のトップにこそ雲がかかっていたものの、カール底の視界は比較的クリアだったのに、今回は至近のところにあるはずの涸沢小屋でさえ霧の向こうに霞む始末。この先進むザイテングラートに至っては、全く見えない。

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 気温もそんなに上がっておらず、汗をかいたせいか、雨に打たれたせいか、歩みを止めると寒くさえある。とにかく、ヒュッテの売店で暖かい飲み物を買おうと思った。パンツのポケットの中に突っ込んだままの財布を取り出そうとしたが、レインウェアのサイズが小さめだったせいか、財布を取り出すのにも苦労する始末。いろいろなことが上手くいっていないような気分になってくる。着るだけならMサイズで十分だったのだが、その下の装備品のことを考えればLサイズを買っておくべきだったか。まあ、昨シーズンの終わり掛けに、八ヶ岳用に駆け込みで買ったようなウェアなのでやむなしと言ったところか。安くはない買い物だったけれど、快適な山行を求めるなら買い替えを考えた方が良いかもしれない。

 それにしても当面の問題は、この天候だ。スマホで情報を収集しようにも、ここでも電波をつかめない。涸沢までくれば携帯をつかえたような記憶があったのだが、今年の状況が特殊なので、臨時基地局とか言ったものが設置されていないのかもしれない。信用できる筋からの情報は仕入れられないが、たぶん、この先はずっとこの調子で雨が降り続くのだろう。不安を覚えるのはこの寒さだ。途中で低体温で動けなくなったとかだと笑い話にもならないので、ようやく買えた温かい紅茶と、持ってきたチョコレートで体を温めた。

 ここから、穂高岳山荘までは約3時間コースと見る。森林限界を抜けかけ、そろそろ高山帯に入りつつあり、ペースは上がらなくなってくる。晴れていれば、そんなに遠くには見えないはずのザイテングラートにたどり着くまで1時間半。ザイテングラートを突破するのにさらに1時間半。そう踏んでいる。そんなに長い道のりではないし、日がないとはいえ夏の昼間なので、低体温症に陥ることはないだろう。そう見極め、出発した。今晩は、ザイテングラートを登り切った先の穂高岳山荘に泊まる。今年の穂高岳山荘は、完全予約制だ。疫病に罹患したとか悪天候のためとかで予約をキャンセルこと自体は咎められないだろうが、先に予約ありきになると、何となくその通りに進まないといけないような気がしてくるから怖い。

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 まずは涸沢小屋側に回り込む。北穂との分岐点になっているので、来る日のためにその様子を眺めた後、小屋の上方の灌木帯に進んだ。樹林帯はほどなく終わり、後はザイテングラートに向かって石がごろごろと転がる斜面を登ることになる。この仮称ザイテン坂が、体感的には長く感じる。「山と食欲と私」でも一向に縮まらない距離として描かれているが、ザイテングラートの下部にたどり着いたのは、12:32のことだった。登っている時に正確にタイムを把握していたわけではないけれど、前回の山行も参考にしながら記事を書いていると、昨年と比較して30分ほど遅い到着だったことがわかる。そもそも涸沢への到着が15分ほど遅く、出発に関しては30分ほど遅い。要するに、横尾と涸沢での休憩がそれぞれ大分前回より長かったようで、歩くのが遅かったわけではなさそうだ。未知のコースを歩く場合は気が急くので、休憩が短めになる傾向があるが、今回は全体の雰囲気が見えるからこその強みと言えるだろう。各チェックポイントを大体どの程度のタイミングで抜ければ十分というのがわかっている。

 昨年の挑戦と違うのは、前回はザイテングラートを登っている途中で雨が降り出したということ。あまり余地のないザイテンの途中で、苦労しながら雨用装備に切り替えたことが思い出されるが、今回はザイテングラート突入時にヘルメットをかぶるだけの装備替えで良い。雨は一向に止む気配がなく、ガスも濃い。急峻な岩場が濡れているという状況はあまりありがたくないが、ここで立ち止まっても仕方がない。さっさと登りにかかる。

 ここで、虎の子のGoProを稼働させてみる。本来、こういう岩稜登りみたいなアクティビティを撮影するのに向くカメラなので、ここで使わなくていつ使うのか。一応、本体単独で潜水にも耐える防水仕様となっているらしいので、雨はそんなに心配がないはずだ。とりあえず、一つ目のバッテリーが空になっても構わないので、連続稼働できるだけの間、撮り続けてみることにした。あとになってその時の動画を見てみると、その辺の低山を登っている時ではありえないのんびりペースで登っていることがわかる。まあ、「日本の名峰 絶景探訪」のDVDを見ていても、意外にゆっくりとしたペースで歩いているし、高山を登るときはこんなものだろうか。ちなみに、動画だとかなりの痩せ尾根を登っているかのように見える。広角レンズを使っていることの影響という気がする。実際のところ、コースを外れて滑落すれば、大けがか最悪なら死が待っているようなコースではあるけれども、今回はガスが濃いせいで高度感が全くない。

つづく

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