山登ってみよう【涸沢岳・後編】

 翌朝、4時に起床。軽い頭痛がある。夜中に頭痛に悩まされた槍ヶ岳の時は、朝目が覚める頃には頭痛も収まっていたのだが、あの時とはちょっと様子が違う。小屋に着くなり昼寝をしたのがその時の反省材料だったので、以降それは避けていたのだけれど、それでも鈍痛が残っている。あんまりありがたくない状況だ。

 外の様子を伺うと、雨こそ降っていないようだが、風が吹いている。各種天気予報の情報によると、今日多くの時間帯で風速は14~15mに達する。雨はそんなに強くなさそうだが、短時間のうちに止むことは期待できなさそうだ。そして、視界は極めて不良。つまり、三重苦。あらゆる状況が山頂アタックをあきらめた前回よりも悪い。一応、例の崖下まで行って上の方を見上げてみたが、トップの様子が見えない。というか、至近にあるはずの小屋からですら、試練の崖の様子が見えなかった。風は、ともすれば体をもって行かれそうになるほどのもの。登り切った先がどのような状態になっているのやら。いろいろ考えたが、今回も奥穂アタックは断念することにした。昨日の涸沢岳が、貴重な戦訓になったのだと思うことにする。あれは、一歩間違えば運ゲー化する状態だった。

 奥穂登頂をあきらめるとなれば、下山のことを考えなければならない。気にかかるのはザイテンのことだが、先にも触れた通り、多少下山開始時間を前後させたところで状況はさほど改善しなさそうだ。初心者には厳しいザイテングラートだが、もろに風に吹かれるような場所はないので、早めに下りはじめるのもありだろう。さっさと下山して、ひらゆの森で命の洗濯をすることにした。

 5:20、下山を開始。山荘前のテラスを出はずれてすぐのところで、いきなりつまずいて転んだ。場所が場所だけに、ひとつ間違えれば転滑落につながっていてもおかしくなかった。たるんでいるつもりはなかったが、昨日の疲れが残っているのか。気合を入れなおす。今朝、穂高神社で買ってきた無事かえる守りがいつの間にかなくなっているのに気付いた。どうにも験が悪いが、逆に考えることにする。お守りがなくなったから、この先の道のりに災難が待っているのではないのだ。由緒正しき穂高神社のお守りが対消滅したことで、大いなる災厄が取り除かれたに違いない。例えばこの山行中に焼岳が噴火するほどの大災害があったのかもしれなかったのが、未然に防がれたとか、そういうことなのだろう。

 気を張りつつも、悶々とした思いでザイテングラートを下る。もしかすると、私と穂高の相性は良くないのかもしれない。いつも天気にケチが付くような気がする。きれいに晴れたのは2回目の西穂独標くらいのもので、槍ヶ岳に登った時も穂高は見えなかった。蝶ヶ岳に登った時、笠ヶ岳に登った時はどうだっただろう。あんまり覚えていないが、少し穂高とは距離を置こうかという気持ちになりつつある。穂高の峰は、どこも峻岳だ。簡単には登れないのに、その度空振りになるのは辛い。前回・今回ともザイテングラートを登り詰めるところまではやったけれども、初心者向きとは言え、そんなに楽でもない道を、最大の成果もあげられずに引き返すのは悲しくなってくる。次はもっと、体力的にきついだけの円やかな高山に行きたい。病気の流行次第だが、今年ダメだった裏銀座、立山・後立山方面、常念、南アルプスに新たな展望を見出したい気がする。

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 1時間ほどかけて、ザイテングラートを下り切った。ここでひとまず、遭難の危険はぐっと下がる。雨の止まないザイテン坂(仮称)を下り、行きとは違う涸沢パノラマコースに進路を取る。次に穂高に来ることがあるとすれば、何となくそれは奥穂でなく北穂のような気がするが、そうなると涸沢パノラマを歩く機会は長らく失われる。涸沢を見下ろす石畳の道を歩いていく。そう言えば前回、涸沢を間近にして涸沢小屋に下る道を間違えたこともあった。あれでだいぶ時間をロスしたので今回は気を付けなければと思っていたが、別コースを歩いた今回も、微妙にコースを外してしまった。涸沢との相性もあまり良くないのだろうか。

 穂高への道は、段階的に危険度が下がる。涸沢より下は、よく整備された低山くらいの登山道になり、本谷橋より先は傾斜も目に見えて緩くなる。本谷を過ぎれば、さすがに命の危険は去ったと思って良いだろう。そんな風に慢心していたのがいけなかったのか、またも何もないような砂地の道で転んだ。二回の転倒のため、もともと強度はさほどでもないレインウェアに穴をあけてしまった。今回の登山、本当にいい所がないような気がする。テンションが下がる。

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 どうにかこうにか横尾まで戻ってきた時、時刻は9時を過ぎていた。ここから上高地バスターミナルまでは、普通に歩いて3時間ほどの道。長いが、いよいよ生命の危険は考えにくい道。思索にふける。来季のこともそうだが、今年もこのままでは終われない気がする。やはり、立山日帰り縦走はものにしたい。決行のタイミングは、9月の連休。さすがに調べ物をしながら河童橋までの道を引き上げるわけにはいかないし、そもそも携帯の電波も通じていないのでそれはできないのだけれど、とにかくもどかしいような気持で、10㎞ほどの道を2時間ちょっとで歩いた。

 ところで、私が行き来した数日後、小梨平のキャンプ場でキャンパーがクマにけがを負わされ、キャンプサイトが閉鎖されるという事件が発生した。食べ物の匂いをさせていたのが直接的な原因だと言われているが、コロナの影響でアウトドアが注目された結果であるとか、ごく最近まで上高地への人の出入りが制限されていたせいでクマの領域が広がっているのだとか、いろいろ議論が交わされているようだ。私が歩いたときはサルの群れとはすれ違ったが、今回はクマとは合わなかった。上高地のクマは人なれしていそうなので、だしぬけに出会ってもびっくりはしないのかもしれないが、人間の方はそう泰然と構えてられるものでではないだろう。客足の遠のくような話ばかりだった上高地の受難は、今しばらく続くのかもしれない。

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