山登ってみよう【縦走東海自然歩道・井出~思親山~上佐野~長者ヶ岳~田貫湖・後編】

 もともとの大雑把な想定だと、上佐野集落にはおおよそ10時に着くつもりでいた。ただ、根拠となるデータが乏しいため、とらぬ狸の皮算用みたいなものだったのは確かだ。もともと、参考書としていたガイド本は発行年が古い恨みがあったのだけれど、ここ上佐野集落については交通不便を理由に、通過すらしないコース設定となっている。すなわち、思親山については井出から登って内船に抜け、長者ヶ岳に着いては田貫湖から登って天子が岳、白糸の滝と抜けていく。二つの山の谷間の集落上佐野のことは、全く触れられていない。

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 そんな辺鄙な上佐野集落の、それでも目抜き通りと思われる道を歩く。マムシ養殖場を経営する商店(と言っても行きずりのハイカーが飲食物を買えるような雰囲気の場所ではないが)があり、お世辞にも登山利用に向くとは言えない南部町営ばすの停留所がある。本数が少ないとはいうものの、一応日祝日と年末年始以外は、便があるらしい。今日は土曜日なので、バスも走っている道理だ。次にやってくるのは13:46内船駅方面行のバス。さらにその次は終バスとなる16:54便。名古屋を始発で経った場合のことをうっすらと想定してみる。13:46に間に合うよう思親山を越えるのは無理があるが、16:54ならまず間違いはなさそうだ。ただ、次回どうやってここに来るのかという問題が残る。逆接的に言えば、そのくらいの時間にしかここまで来れない。これからの季節、そこから日のあるうちに長者ヶ岳を越えるのもまた、無理がある。たとえ萎えた足で歩くことにはなっても、今日これから長者ヶ岳越えに挑んだ方が、はるかに分がいい。

 体力を残して長者ヶ岳に挑もうとする場合のもう一つの解決策が、すぐ近くにある宿泊施設・佐野清流荘に一泊するというプラン。利用システムが良くわからないが、普通の宿というよりいわゆる合宿施設みたいなものらしい。一人で泊まるには立派すぎる平屋の建物だが、一人でも泊まれるらしい。もっとも、近傍に飲食店も物販店もないので、少なくとも食糧を持ち込む必要はありそうだ。前回、デマンドバスにすらたじろいだ私が使うには敷居が高すぎる。

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 そんな佐野清流荘を見下ろす路傍に腰掛け、カロリー摂取と水分補給、ダメ押しでアミノバイタルをチャージする。ここから長者ヶ岳の稜線に出るまでは、3時間コースと踏んでいる。これも根拠というほどのものはない。YAMAPで表示される地図のベースは地理院地図らしく、東海自然歩道は点線で表現されているが、一般登山道であることを示す赤線も引かれていなければ、標準コースタイムの記載もない。先に触れたガイド本では、そもそも紹介されていないコースなので、タイムの記述もない。上佐野側から長者ヶ岳主稜線に至る東海自然歩道は荒廃が進んでおり、「山と高原地図」の富士山版では、長者ヶ岳主稜に近い部分が地図範囲に含まれている関係で、破線とともにどこまでのタイムを示すものなのかわからないタイムも表示されているといった程度だ。コースタイムが出ていたとして、その通りに歩けるかどうかも怪しげな状況ではあるけれど、日没まではまだ時間がある。道迷い、悪路での滑落と言ったアクシデントに気を付ければ、勝算は十分にある。10:44、佐野川を渡って、長者ヶ岳の領域に本格的に進入した。この川が、この山行におけるルビコン川となるような決意で挑んだ。

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 崩壊進む悪路の前評判に身構えながら、登り坂を行く。が、序盤は極端に道が悪いというほどのこともない。多少コースが不明瞭になることもあるが、普通に歩ける程度の登山道だった。しかし、結構きつい斜面の道なのは否めない。5時間コースの日帰り登山をこなした後のようなコンディションという不利もあるけれど、体が重く、進捗はあまりはかばかしくない。沢沿いの道は、まさに谷間の道と言った雰囲気で、陰気である。気持ちもなかなか上がらない。山の上の方からは、シカのものと思しき甲高い鳴き声が聞こえてくる。闖入者への威嚇なのかと思いながら歩いていたが、後になって知ったところによれば、シカたちは今まさに発情期の真っ最中で、あの鳴き声はそういう声らしい。百人一首の猿丸太夫の歌は、発情したシカの鳴き声を詠んだもののようだ。

 やがて、シカの鳴き声も止んでしまった。道が特別不明瞭というわけでもないけれど、道迷い対策としてYAMAPで現在位置を確認しながら進む。幸い、東海自然歩道の経路からは外れていないが、同時に高度をさほど稼げていないのにもうんざりしてくる。喘ぎ喘ぎ登ること1時間余りの11:54、目の前にベンチが姿を現したので、縋り付くようにして腰を下ろした。標高は、大体740mの地点。上佐野集落が500mに満たないほどの標高だったので1時間ほどかけて300m弱を登ってきたことになる。ただ、長者ヶ岳山頂まではまだ600mほどを残すので、あと2時間ほどの登りは覚悟しておく必要ありか。3時間コースは見通しが甘かったらしい。木っ端微塵になった指導標が、不安な先行きを暗示しているようでもある。

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 予想より芳しくない進捗を見せつけられ、ここでついに禁じ手を使う。もとは針ノ木岳雪渓用に購入したが、その後使う機会に恵まれなかったストックを、今日はここまで持ってきている。ストック術の拙い私だけれど、それでもこれを活用すれば、少しは状況が良くなるのではないか。体力の衰えを物語るようで避けたかった手ではあるけれど、私は、地獄の悪魔と手を取った。すると、杖の効用なのかどうかは定かではないが、だいぶ登りが楽になった気がする。

 しかし、体力面での問題が軽減した一方で、ついに本格的な悪路区間も始まった。いきなり道がなくなるようなことこそないが、斜面上に着けられた道の幅は、目に見えて狭くなった。すれ違いの心配をする必要はあまりないだろうが、1.5人分程度の道幅しかないうえ、道自体が谷に向かって緩く傾斜している。時折姿を現す桟道は、苔むし、かなり老朽化しているように思える。実際にその上に乗ってみると、意外にも危なげにたわむようなことこそないけれど、長らく設備の更新は行われていないことは明らかだ。

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 ピンクテープと、いかにも山岳県山梨らしいペンキマークを頼りに進んでいくと、要所要所で斜面が崩落し、道がほとんど消えてなくなっている箇所も散見されるようになってきた。一応、そのような場所ではまだ新しいトラロープが渡されているので、それを掴みながら進めば、不意に足元が崩れて滑落していくこともなさそうだ。それにそういう箇所には、わずかながら踏み跡も存在している。山梨県によって完全に放棄されたわけでもなく、たまには歩く人がいるらしい事実に励まされた。ただ、万が一登山道から滑り落ちると、厄介なことになりそうだ。よほど運が悪くなければ、即死するようなことはなさそうだけれど、大なり小なり怪我することは避けられなさそうだし、斜面のきつさも相まって登山道に復帰するのも難儀しそうである。総じて、東海自然歩道としてはこれまで見てきた中で最悪レベルの整備状態だが、マイナーな登山道としてとらえれば、突出して危険というほどの道ではないといったところか。歩きづらい道であることだけは覆しようがないものの、この道を登りに使うことになったことで、精神的には気楽だったことは良かったとも思う。下りのルートとして使うことを考えると、悪い方向に印象が変わりそうだ。

 1時間余りも、傾いた道の歩行を強要されたため、足も痛くなってきた。ふと空を見上げると、パラグライダーが空を舞っているのが見えた。私が悪戦苦闘しながら地べたを這いずり回っている間、優雅に高原リゾートを満喫している人がいる。ただ、久しぶりに感じた人の気配に、羨望や嫉みとは違う、ある種の愛おしさの感情が勝った。

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 740m地点のベンチから1時間半ほど、ついに最後の難所と思われる急なガレ場に差し掛かった。大きな石がゴロゴロ転がっているので、どこが登山道なのかが一見して掴みづらく、ますます注意してテープの所在を探りながら、一心に上を目指していく。そして13:51、ついに長者ヶ岳と天子ヶ岳を結ぶ稜線の上佐野分岐に出た。目の前には、東海自然歩道の真新しい指導標。長者ヶ岳のほか、天子ヶ岳とその先の白糸の滝を示している。山梨県の東海自然予算がここだけ潤沢なわけではなくて、少し前までよく目にした静岡仕様の指導標だった。実はこの稜線、山梨県と静岡県の県境となっている。前回で静岡県コースからは完全に離脱したつもりでいたが、静岡県との付き合いは今少しだけ続くのだった。

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 とにかく長いの一語に尽きる登りだった。まだこの後も少しばかりの登りが控えているのだけれど、悪路でない分だけはるかに気が楽だ。気力を振り絞り歩くこと30分、14:21に長者ヶ岳山頂に到着。この山自体は、少なくとも地元ではある程度人気の山なのだと思われるが、山頂には二人連れのハイカーが一組いただけだった。そして、ここまでくれば眼前にさえぎるものなくそびえたっているはずの富士山は、ほとんど雲の中に隠れていた。日ごろから、「新幹線から見る山」とディスり続けてきたのが災いしたのか、富士の神にそっぽを向かれたのかもしれないが、次回以降の数十キロは、富士山北麓を巻く形になる。いやでも至近距離から富士山を見上げる機会はあるだろう。今回富士山を見られなかったことにはこだわらないことにした。

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 それにしても長者ヶ岳への到着時間である。悪路の影響もあったが、想定より40分ほど遅い。ここから長者ヶ岳登山口までは、案内板によれば、コースタイムで1時間ほどかかるとされている。順調に行って、日暮れまでは1時間半を残す計算にはなるが、できれば田貫湖近辺で少しばかり高原リゾートの情緒に浸りたい気分があった。10分ほどの滞在の後、長者ヶ岳の山頂を後にした。ここまでで、持参した飲み物をすべて消費してしまっていた。食べ物はいくらかあるが、喉の渇きに耐えられなくなる前に下山してしまいたかった。

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 長者ヶ岳山頂から田貫湖畔に通じる道の整備状態は、上佐野側と雲泥の差だった。家族連れのハイキングなどでも登られるであろうこのコース。同じ長者ヶ岳の山中に、いろんな意味で地獄のような登山道があることをどれほどの人が知っているのだろうか。余計なことを考えながら下っていたら、すっころんだ。こちら側の道は、整備状態こそ良好ながら、実は傾斜がかなりきつい。いい加減足が弱ってきている自覚はあったので、とにかく用心して下った。トリカブトが花をつけている。

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 15:27、長者ヶ岳登山口にたどり着いた。東海自然歩道はこの先、左手に延びていく。が、そこを歩くのは次回以降のこと。今日は右手の田貫湖の方に進路を取った。田貫湖は、もともと農業用水を得るための人造湖なのだそうだ。が、今では多くの人が湖畔に憩うリゾート地となっている。疲れ切った足で湖畔の道をよたよたと歩いていると、自転車に乗った家族連れが何組も通り過ぎていった。どうやらどこかで自転車の貸し出しが行われているらしい。湖水の向こうに見えるキャンプサイトのあの辺りだろうか。漫然と視線を投げた。今日はこの後、富士急静岡バスの路線バスで新富士駅まで引き上げるつもりだ。最寄りのバス停としては田貫湖南バス停となるはずだが、どうやらバス停以外何もない場所のようだ。歩行距離は伸すが、キャンプサイトの方まで歩くことにした。

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 湖の南側にあるキャンプ場管理棟を、今日の私のゴール地点とすることにした。YAMAPを停止する。リゾート地らしく、ソフトクリームなんかも売られているようだったが、いささか肌寒くなってきていたこともあり、色気もなく自販機で紅茶を買い、喉を潤した。歩行距離30㎞超の行程もそれはそれで辛いが、日帰り登山2セットの1日もなかなかにハードだった。まあそれでも、どうにかゴールすることができて良かった。次回から2回は、比較的起伏の少ない高原のリゾート地近辺を歩くことになる。そのことが歩行時間の短さを意味するものではないけれど、今は一時本格的な山登りを離れられることがありがたかった。ぼんやりとした富士山の輪郭を眺めながら、気の早いことに次回以降の旅に思いを寄せていたが、その直後、落ち着いてバスを待てるバス停となると、田貫湖畔最奥の休暇村富士までさらに15分ほど歩かなければならないのに気付いたのだった。

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 それにしても、アウトドア派と呼ばれる人たちはすごいと思う。当今のご時世の影響もあるのだろうが、田貫湖畔には多くのテントが立ち並んでいる。自分はちょっと、野外みたいなところで寝たり飯を煮炊きして食べたりというのはできそうにない。私にそのぐらいの気骨があったら、普段の山行も、東海自然歩道の旅も、もう少し違った展望が開けていたのかもしれないと思った。

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