姫の旅(後編)

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 三ケ日まで来ると、豊橋だとか豊川だとかいった地名が目に付き始める。土地勘も十分の地域だ。と同時に、本坂峠に関するあまり気持ちの良くない思い出もよみがえる。本坂峠には国道用のトンネルがあり、それより早く役目を終えた旧道のトンネルもある。峠越えの幹線道路には良くある話で、土木工事の技術進歩に伴い、鞍部を越える徒歩道だったものが、明治~昭和初期にかけ素掘り・石巻きとかの短い質朴なトンネルに置き換わり、戦後にはさらに山麓に低い位置の長大トンネルにとってかわられるという歴史を、本坂峠の道もたどっている。新道のトンネルはここで問題にするものではない。問題は旧道トンネルの方だ。良くある話で、心霊スポットと言われるトンネルである。当然と言おうか、隧道内に明かりはなく、その昔自転車でここに突入した時は平衡感覚がつかめなくなって転倒しそうになった。ただ、自滅型の事故をやっているうちはまだ大過はない。酔狂な車が旧トンネルの方に突っ込んでくることもあるので、そんなところを生身でうろうろしていたらはねられてもおかしくない。よもや街道ウォークの対象たる姫街道がこのトンネルを通過することはないだろうが、今日は万が一このトンネルを突破する必要に迫られた場合のためにヘッドランプも持ってきている。

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 三ケ日の郊外、というより現在は浜松市の郊外となった山間の国道を歩く。山間と言っても、そんなに山が深いわけではないので、車で走る分には快適な道だ。そしてこんなところにも街道時代の遺構はあり、今日歩いた中で最も保存状態の良い一里塚も峠に向かう道の途中にある。一里塚は、その名の通りおよそ一里(約4㎞)ごとに設置された塚で、旅の進捗を旅人に知らせる意味を持つ。普通、現在の鉄道の駅間距離みたいに宿場間の距離もおよそ決まっているので、大抵は宿場と宿場の間に一つか二つ程度置かれるものなのだ。ここ姫街道において三ケ日宿の次は嵩山宿で、その次が御油宿となっている。御油宿は東海道五十三次の一つで、東海道の本道と脇往還である姫街道の分岐点となっている。嵩山宿は小さな宿場だったらしく、三ケ日宿から御油宿までの距離は20㎞ほどに及ぶと思われる。いかに徒歩での旅が当たり前の江戸時代の人であっても、間に峠越えを挟むこの距離を歩くのは半日、どうかすると一日仕事だったと思われる。今日の私は御油まで行くこともなく、その途中の豊川稲荷で旅を打ち切るつもりだが、それでもここからの距離は十数㎞になるだろうか。最後の最後に骨の折れる仕事が残った。峠の上の空は、この語の展開を暗示するかのように暗く曇っている。

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 ここで、ある意味で今日最大の注目ポイントとなる橘逸勢神社に立ち寄って行く。一般に空海らと並んで三筆の一人として知られる人物である。ただ、その天下に鳴り響く名声とは裏腹に、晩年は不遇だった。謀反の嫌疑をかけられた挙句、名誉をはく奪され、伊豆への流刑となったのである。実際には、伊豆にたどり着く前、当時遠江国板築(ほうづき)と呼ばれたこの辺りで亡くなったと伝わる。そしてその死後、晴れて彼の無実は認められたのだが、それだけに世人は彼が怨霊となったのではないかと恐れた。京都の上御霊神社や下御霊神社は、他の荒ぶる御霊とともに逸勢も祭神としている。もちろん、逸勢終焉の地となったこの地に存在する神社も彼を祭神としてまつるものなのだろう。ただ、怨霊を鎮めるためのという仰々しさはなく、当地の人が逸勢の御霊を安んじるために建立した、より素朴な信仰の場という感じはした。国道に面しつつこれを見下ろしてしてある神社は、小さな境内に小さな祠を持つ神社だった。境内で目につく様々なものが新しいあたり、現在の姿を備えるに至ったのはそんなに古い時期の話ではないのかもしれない。

 怨霊の神を祀る神社と薄暗くなってきた空、そして心霊スポットの風聞のあるトンネルを持つ峠と、何となく先行きにただならぬことが待ち受けていそうな気がしてくる。ただ、ここまで来たら後は峠を越えるしかない。よもや、三ケ日駅まで引き返すというのは考えられなかった。神社から10分ほど歩くと、本坂峠の登山口とされる場所にたどり着いた。幸いなことに、付近にある看板は「ハイキングコースでござい」とばかりの雰囲気を演出しつつ立っている。実際、愛知県静岡市と静岡県浜松市や湖西市の境界に当たるこの山地は二県双方から伸びるハイキングコースが存在している。

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 早速、登りに取り掛かる。そこはそれ、一応は古道の成れの果てなので、ガチのハイキングコースみたいに厳しい登りを強いられることもなく、緩やかに淡々と登りが続いていく。その一方、古道感も小引佐の峠などに比べれば乏しいような気がする。良くも悪くも普通の山道。そんな印象だ。部分的に、鏡岩などというその昔の逸話を残す遺物もあるにはある。現在は、普通の大岩のようになってしまったそれも、その昔は鏡のようにてかっていたので、旅の女性がそこに自分の姿を映して身づくろいをしたのだと解説されている。おそらく、風雨にさらされる前にはつやつやとした表面だったのだとは思うけれど、だからと言って姿が映るほどのものだったとも思えないのだけれど。

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 舗装道路と何度か交わりつつ、登山口から30分弱で本坂峠の鞍部まで登り切った。最前書いた通り、この辺りの山中にはここ数十年のうちに整備されたハイキングコースが存在している。個人的になじみの深いものが豊橋自然歩道で、それも本坂峠を通っている、姫街道は、豊橋自然歩道とクロスする形で豊橋側に下っていく。そのため、本坂峠には指導標がいくつも立っていて、これまでの姫街道の峠とはいささか雰囲気が違っている。今日はもちろん、古道に沿って豊橋側に下ることにはなるが、改めて豊橋自然歩道を北端から南端まで歩いてみたいような気がした。

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 豊橋側の姫街道も、今日では近在の山への登山道として利用されている。いよいよハイキングコースとしての色彩が強まり、街道の色彩は希薄になって来た。20分ほどかけて山地の裾まで下ると、そこが嵩山(すせ)宿の入口付近に当たっており、その近辺まで行けば多少、街道の情緒が戻って来た。ここにも一里塚の跡がある。ただ、さらに進んで平地歩行に戻ると、その先には普通の住宅地が広がっているだけだった。道沿いの民家などで断片的に街道時代のよすがをとどめる部分もあるが、気賀宿がそういったものを積極的にアピールしていたのは対照的に、ここ嵩山宿では、現在そこに暮らす人の生活を邪魔しない範囲で遠慮がちにかつての歴史を伝えているといった感じだろうか。蔵のある家、本陣の位置なども示されてはいるけれど、それらの写真を撮るのまではやめておいた。

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 そのまま嵩山宿跡を抜けると、後は普通の地方都市郊外の風景が広がっている。どちらかというと山間のような場所とは言え、そこはそれ、昭和の頃から人口数十万の街の一部だった地域だ。田畑や砕石場など、一般に市街地には存在しないようなものも目にするけれど、それ以外はごく現代的な民家や商店などが立ち並ぶばかりだ。私はこの地域を知っている。後は、多少の変化も交えつつ、ゴール地点まで旧道情緒と縁遠いこんな調子の風景が続いていく。途中の道路標識には、豊川まで9㎞とあった。たぶん市役所までの距離で、豊川稲荷までは7㎞と言ったところか。

 途中の和田辻交差点で別所街道と交差した。古く、三河東部と長野県の伊那を結んだ道で、現在は県道となっているのだと思う。幅員は広くないが、車がひっきりなしに行き交い、隔世の感がある。さらに進んで豊川を渡り、やがて国道151号を横断した。国道151号も伊那に通じている。現在の幹線道路網も、少なからぬところで昔の街道を基軸にしていることがわかる。というのはややマニアックな楽しみ方で、嵩山から御油までの間は、どちらかというと何の変哲もない市街地歩行が続くので、古道ウォークの濃密な楽しみとは程遠い。今回参考にしたガイド本も、この区間に関しては特別街道と関係のない旧跡を見どころとして紹介しているほどだ。

 飯田線及び名鉄豊川線の踏切を越えると豊川稲荷はすぐそこだ。これまで意識したこともないが、この踏切の名は姫街道踏切。また、いつしか国道から県道へとリレーされた進路も、要所要所で通称名的に姫街道の路線名が表示されている。ステレオタイプの街道の顔は、愛知県側に入ってすっかり鳴りを潜めてしまったけれど、それでもこの道は今も変わらず沿線の人たちの身近にあり、その生活の中で重要な役割を果たしているのだ。

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 豊川稲荷門前には、15:46に到着した。一応、今日の旅はここでゴールだ。ただ、せっかくここまで来たので一応、門前町は流してみる。嵩山宿と御油宿の間はかなりの距離がある。ちゃんと計ったわけではないが、10㎞強と言ったところだろうか。豊川稲荷の門前には今もそれなりに古い町並みが残っており、こうした町が間の宿の役割を果たしたのだろうかと思っていたが、この門前町が隆盛を見たのは江戸時代でも比較的遅い時期以降のことだという。対する姫街道は、徳川家光の頃から使われていたというので、私の推論は核心をついていなかったらしい。

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